・・・夜具はもう夜具葛籠にしまってある。 障子の外に人のけはいがした。「申し。お宅から急用のお手紙が参りました」「お前は誰だい」「お表の小使でございます」 三右衛門は内から障子をあけた。手紙を持って来たのは、名は知らぬが、見識った・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・そうすると奴共慌てて逃げてしまやぁがった。」「そのうちに世間が段々静かになって来た。己は毎日毎日土蔵の脇で日なたぼっこをしていた。頭の上の処には、大根が注連縄のように干してあるのだな。百姓の内でも段々厭きて来やがって、もう江戸の坊様を大・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・本当にこれらの人々にもなつかしい親もあろう、可愛らしい妻子もあろう、親しい交わりの友もあろう、身を任せた主君もあろう、それであッてこのありさま,刃の串につんざかれ、矢玉の雨に砕かれて異域の鬼となッてしまッた口惜しさはどれほどだろうか。死んで・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・これを抑えなければ社会は崩壊してしまうであろう、というのである。彼は民衆の力の勃興を眼前に見ながら、そこに新しい時代の機運の動いていることを看取し得ないのであった。正長、永享の土一揆は彼の三十歳近いころの出来事であり、嘉吉の土一揆、民衆の強・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・五六間手前まで行くと電車は動き初めた。しまッたと思いながらなお懸命に追い駈けて行く。電車はだんだん早くなる。それを見てとても乗れまいという気がしたので、私はふと立ち留まった。その瞬間にあれに乗らなければ遅れるかも知れないと思った。それですぐ・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫