・・・「心配は廃しゃアナ。心配てえものは智慧袋の縮み目の皺だとヨ、何にもなりゃあしねえわ。「だって女の気じゃあいくらわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもんなしとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。「ご道理千万・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・――ところが、その入口で母親が急に道端にしゃがんで、顔を覆ってしまった。妹は吃驚した。何べんもゆすったが、母親はそのまゝにしていた。「お母ッちや、お母ッちゃてば!」 汽車に乗って遥々と出てきたのだが、然し母親が考えていたよりも以上に・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・そんなところへこのあやふやな気持を持ってゆき、それをゴマかすためにでたらめをむちゃくちゃにしゃベる! とんでもないことだ! ことごとにこんな自分が情けなく思った。彼は戻りかけた。しかしもう気持が、寄れないところへ行っていた。彼は別な、公園の・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・内儀「何が困るたって、あなた此様に貧乏になりきりまして、実に世間体も恥かしい事で、斯様な裏長屋へ入って、あなたは平気でいらっしゃるけれども、明日食べますお米を買って炊くことが出来ませんよ」七「出来ないって、何うも仕方がない、お米が天・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・「正木先生は大分漢書を集めて被入っしゃいます――法帖の好いのなども沢山持って被入っしゃる」と先生は高瀬に言った。「何かまた貴方も借りて御覧なすったら可いでしょう」「ええ、まあボツボツ集めてます……なんにも子供に遺して置く物もありませ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・是方の旦那様も奥様を探して被入しゃる御様子ですが、丁度好さそうな人が御座いますとかッて。聞き込んだ筋が好いそうでして……なんでも御家は御寺様だそうで御座いますよ……その方はあんまり御家の格が好いものですから、それで反って御嫁に行き損って御了・・・ 島崎藤村 「刺繍」
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・手にとるようによく見える、というが、そのときには、実際、お隣りの家の燃えている軒と、私の頬杖ついている窓縁とは、二間と離れていず、やがてお隣りの軒先の柿の木にさえ火が燃え移って、柿の枯葉が、しゃあと涼しい音たてて燃えては黒くちりちり縮み、そ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・太郎は母者人の乳房にもみずからすすんでしゃぶりつくようなことはなく、母者人のふところの中にいて口をたいぎそうにあけたまま乳房の口への接触をいつまででも待っていた。張子の虎をあてがわれてもそれをいじくりまわすことはなく、ゆらゆら動く虎の頭を退・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・東京訛が抜けなかったために「他国もんのべろしゃ/\」だと云っていじめられた。そうして、墨をよこさなければ帰りに待伏せすると威かされ、小刀をくれないとしでるぞと云っては脅かされた。その頃の硬派の首領株の一人はその後人力車夫になったと聞いたが、・・・ 寺田寅彦 「鷹を貰い損なった話」
出典:青空文庫