・・・ 黒子の多い女の顔でもみるような、人間ぽい生活の気分がその犬の表情にあるのであった。 秋雨の降っている或る日、足駄をはいてその時分はまだアスファルトになっていなかったその坂を下りて来た。悲しそうな犬の長吠えが聞えた。傘をあげて見たら・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・よく驟雨が降った。並木道には水たまりが出来る。すぐあがった雨のあとは爽やかな青空だ。落葉のふきよせた水たまりに、逆さにその空がうつっている。――夕方、東京で云えば日本橋のようなクズニェツキー・モーストの安全地帯で電車を待った。 チン、チ・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・ 丁度上野でデモが解散という刻限、朝から晴れていた空が驟雨模様になって来た。「こりゃふるね」「同じふるなら、早くたのみますね」 かわりがわり本気で窓から空模様をうかがっている。黒雲は段々ひろがった。やがて若葉の裏を翻して暗く・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・或時は、俄に山巓を曇らせて降り注ぐ驟雨に洗われ、或時はじめじめと陰鬱な細雨に濡れて、夏の光輝は何時となく自然の情景の裡から消去ったようにさえ見えます。瑞々しい森林は緑に鈍い茶褐色を加え、雲の金色の輪廓は、冷たい灰色に換ります。そして朝から晩・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・夏の嵐の或る昼間、ひょっと外へ出てその柔かい緑玉色の杏の叢葉が颯と煽られて翻ったとき、私の体を貫いて走った戦慄は何であったろう。驟雨の雨つぶが皮膚を打って流れる。そのこわいうれしさで、わざと濡れに出た。あれはただ一つの冒険の心なのだろうか。・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・て作りぬ細き指環を生れ出て始めてふるゝ三味の糸 うす黄の色のなつかしきかな調子なき思のまゝをかきならす ざれたる心我はうれしきそぼぬれし雄鳥のふと身ぶるひて 空を見あぐる秋雨の日よ秋の日をホロ/\と散る病葉・・・ 宮本百合子 「短歌習作」
・・・寄合町迄行って帰りに驟雨に会った。 第二日 多忙な永山氏を煩すことだから、大奮発で七時起床。短時間の滞在だから永山氏に大体観るべきところの教示を受けたいと、昨日電話して置いたのだ。紹介状には、私共二人の名が連ね・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・ 日本の新しい歴史教科書『国のあゆみ』がその精神において低劣なのは、あの本のどこにも日本人民のエネルギーの消長が語られていず、まるで秋雨のあと林にきのこが生える、というように日本の社会的推移をのべている点である。毛穴のない人工皮膚のよう・・・ 宮本百合子 「なぜ、それはそうであったか」
・・・ 幅ひろい雨がロンドンに降った。夏の終りだ。ペーヴメントを濡し薄い女靴下をびっしょりにして降る雨は、自動車がほろの上にしぶきを立てつつ孤独に走る両側で夏の緑をずっぷり溶かした。 驟雨が上る。翌日は蒸し暑い残暑だ。樹がロンドンじゅうで・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・何にしろ福井辺では七月の下旬に雨が降ったきり、九月一日まで、一箇月以上一度の驟雨さえ見ないと云う乾きようであった。人々は農作物の為めに一雫の雨でもと待ち焦れている。二百十日が翌日に迫っていたので、この地震は天候の変化する前触れとし、寧ろ歓迎・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
出典:青空文庫