・・・堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯は夙うに済んでいて、漆喰は乾いてしまっている。その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。堯は金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。彼は血の痰を見てももうなんの・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・目黒の行人坂、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神あたりの町、新宿、白金…… また武蔵野の味を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包まれている首府東京をふり顧った考えで眺めねばならぬ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 入口の扉が開いて、踵の低い靴をはいた主婦が顔を出した。 馭者は橇の中で腰まで乾草に埋め、頸をすくめていた。若い、小柄な男だった。頬と鼻の先が霜で赭くなっていた。「有がとう。」「ほんとに這入ってらっしゃい。」「有がとう。・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥った笑顔を見せて、半分子供らの友だちのような、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・裏庭には奥さんだけ居て、主婦らしく畠を見廻っていた。「でも、高瀬さん、田舎ですね。後の方にある桑畠まで皆なこの屋敷に附いてるんですよ――」 と奥さんは言って聞かせた。 草の芽が見える花畠の間を通って、高瀬は裏木戸から桑畠の小径へ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ああいうおせんのような女をよく面倒見て、気長に注意を怠らないようにしてやれば、年をとるに随って、存外好い主婦と成ったかも知れない。多情も熟すれば美しい。 人間の価値はまるで転倒して了った。彼はおせんと別れるより外に仕方が無かったことを哀・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・KLEIST チリー王国の首府サンチャゴに、千六百四十七年の大地震将に起らんとするおり、囹圄の柱に倚りて立てる一少年あり。名をゼロニモ・ルジエラと云いて、西班牙の産なるが、今や此世に望を絶ちて自ら縊れなんとす。 いかがです。この裂帛・・・ 太宰治 「女の決闘」
きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・白足袋や主婦の一日始まりぬ。白足袋や主婦の一日始まりぬ。実際、ひとを馬鹿にしている。私はあの句を読んだ時には、あなたの甲斐々々しく、また、なまめかしい姿がありありと眼の前に浮んで来て、いても立っても居られない気持でした。何だかもう、あなたた・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ と、田舎の角の植木屋の主婦が口の中で言った。 その植木屋も新建ちの一軒家で、売り物のひょろ松やら樫やら黄楊やら八ツ手やらがその周囲にだらしなく植え付けられてあるが、その向こうには千駄谷の街道を持っている新開の屋敷町が参差として連な・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫