・・・こういうものを供えて星を祭った昔の女の心根には今の若い婦人たちの胸の中のどこを捜してもないような情緒の動きがあったのではないかという気もするのである。 今の娘たちから見ると、眉を落とし歯を涅めた昔の女の顔は化け物のように見えるかもしれな・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・まもなく重兵衛さんは亡くなってそのうちに息子の楠さんは細君を迎えて新家庭をつくった。新婚後まもないことであったと思う。ある日宅の女中が近所の小母さん達二、三人と垣根から隣を透見しながら、何かひそひそ話しては忍び笑いに笑いこけているので、自分・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・ こゝへ新に入り来りし二人連れはいずれ新婚旅行と見らるゝ御出立。すじ向いに座を構えたまうを帽の庇よりうかゞい奉れば、花の御かんばせすこし痩せたまいて時々小声に何をか物語りたまう双頬に薄紅さして面はゆげなり。人々の視線一度に此方へ向かえば・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・今日が新婚旅行のようなもんだっせ」雪江はいそいそしながら、帯をしめていた。顔にはほんのり白粉がはかれてあった。「ほう、綺麗になったね」私はからかった。「そんな着物はいっこう似あわん」桂三郎はちょっと顔を紅くしながら呟いた。「いく・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・頭髪にチックをつけている深水は、新婚の女房も意識にいれてるふうで、「――わしも応援するよ、普選になればわれわれ熊連は市会議員でも代議士でも、ドンドンださんといかん」 いいながら、こんどは三吉を仲間にいれようとする。「君ァどうかね・・・ 徳永直 「白い道」
・・・「さあ新婚旅行だ。」とベン蛙がいいました。「僕たちはじきそこまで見送ろう。」ブン蛙が云いました。 カン蛙も仕方なく、ルラ蛙もつれて、新婚旅行に出かけました。そしてたちまちあの木の葉をかぶせた杭あとに来たのです。ブン蛙とベン蛙が、・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・この小説が後半まで書き進められたとき、作者の心魂に今日のその顔が迫ることはなかったのだろうか。愛と死の現実には、歴史が響き轟いているのである。 武者小路氏はルオウの画がすきで、この画家が何処までも自分というものを横溢させてゆく精力を愛し・・・ 宮本百合子 「「愛と死」」
・・・若いカールとイエニー夫妻は、一八四三年の十一月パリに向って出発した。新婚五ヵ月のマルクス夫妻をパリで待っていたのは、歴史のどんな波瀾であったろうか。 ここに一枚の写真がある。写真には年代不詳と書かれている。カール・マルクスが薄色のズ・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・ 飯事を忘れかぬる優しい心根よ。 一人行く旅路の友と人形を抱くしおらしさよ。我妹、雪白の祭壇の上に潔く安置された柩の裡にあどけないすべての微笑も、涙も、喜びも、悲しみも皆納められたのであろうか。永久に? 返る事なく? 只一度の微・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・分の子をつれて行く黒馬車を待ちながら堪えられぬ怖れに迫られて居る様に、時々土間に下りては、暗い中を、遠い門の方をながめてぼんやり立ちくらして居るのを見ると、女親の様に、涙も気ままにこぼせない意地で保つ心根が、何かやさしい言葉をかけて、なぐさ・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
出典:青空文庫