・・・を遂げなかった後、恐ろしい雁坂を越えて東京の方へ出ようと試みたことが、既に一度で無く二度までもあったからで、それをお浪が知っていようはずは無いが、雁坂を越えて云々と云い中られたので、突然に鋭い矢を胸の真正中に射込まれたような気がして驚いたの・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・、何らその間にイヤな事もない、利休が佳とし面白しとし貴しとした物は、長えに真に佳であり面白くあり貴くある物であるのであるが、しかしまた一面には当時の最高有力者たる秀吉が利休を用い利休を尊み利休を殆んど神聖なるものとしたのが利休背後の大光だい・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・「冗談を云わずと真誠に、これから前をどうするんだか談して安心さしておくれなネエ。茶かされるナア腹が立つよ、ひとが心配しているのに。「心配は廃しゃアナ。心配てえものは智慧袋の縮み目の皺だとヨ、何にもなりゃあしねえわ。「だって女の気・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・あの満天星を御覧、と言われて見ると旧い霜葉はもう疾くに落尽して了ったが、茶色を帯びた細く若い枝の一つ一つには既に新生の芽が見られて、そのみずみずしい光沢のある若枝にも、勢いこんで出て来たような新芽にも、冬の焔が流れて来て居た。満天星ばかりで・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・この意識の消しがたいがために、義務道徳、理想道徳の神聖の上にも、知識はその皮肉な疑いを加えるに躊躇しない、いわく、結局は自己の生を愛する心の変形でないかと。 かようにして、私の知識は普通道徳を一の諦めとして成就させる。けれども同時にその・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ ――神聖な家庭に、けちをつけちゃ困るね。不愉快だ。 ――おそれいります。ほら、ハンケチ、あげるわよ。 ――ありがとう。借りて置きます。 ――すっかり、他人におなりなすったのねえ。 ――別れたら、他人だ。このハンケチ、や・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・を読むと、モーゼの努力の程が思いやられて、胸が一ぱいになります。神聖な民族でありながらもその誇りを忘れて、エジプトの都会の奴隷の境涯に甘んじ貧民窟で喧噪と怠惰の日々を送っている百万の同胞に、エジプト脱出の大事業を、「口重く舌重き」ひどい訥弁・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ダンテは九歳にして「新生」の腹案を得たのである。彼もまた。小学校のときからその文章をうたわれ、いまは智識ある異国人にさえ若干の頭脳を認められている彼もまた。家の前庭のおおきい栗の木のしたにテエブルと椅子を持ちだし、こつこつと長編小説を書きは・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・へんな言い方だが、生きている人間には何か神性の一かけらでもあるのか、私たちばかりではなく、その畑に逃げて来ている人たち全部、誰もやけどをしなかった。おのおのが、その身辺の地上で焔えているベトベトした油のかたまりのようなものに蒲団やら、土やら・・・ 太宰治 「薄明」
・・・事件の再調査を申請して来たのである。その二年前に、勝治は生命保険に加入していた。受取人は仙之助氏になっていて、額は二万円を越えていた。この事実は、仙之助氏の立場を甚だ不利にした。検事局は再調査を開始した。世人はひとしく仙之助氏の無辜を信じて・・・ 太宰治 「花火」
出典:青空文庫