文化六年の春が暮れて行く頃であった。麻布竜土町の、今歩兵第三聯隊の兵営になっている地所の南隣で、三河国奥殿の領主松平左七郎乗羨と云う大名の邸の中に、大工が這入って小さい明家を修復している。近所のものが誰の住まいになるのだと・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・ F君と私とは会話辞書の話をした。Meyer と Brockhaus との得失を論ずる。こう云うドイツの本が Larousse や Britannica と違う所以を論ずる。俗書が段々科学的の書に接近して来る風潮を論ずる。とうとう私はラ・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・魚河岸の兄いは向こう鉢巻をもって、勉強家は字書をもってこの問題を超越している。ある人は「粋」の小盾に隠れてこの悶を野暮と呼び、ある人は「理想」の塹壕に身を沈めてこの煩を病的と呼ぶ。 人生問題はすべての歴史の根底に横たわる。星を数えつつ井・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫