・・・いまの時勢に、くるしいなんて言って、酒をくらって、あっぱれ深刻ぶって、いい気になっている青年が、もし在ったとしたなら、私は、そいつを、ぶん殴る。躊躇せず、ぶん殴る。けれども、いまの私は、その青年と、どこが違うか。同じじゃないか。としをとって・・・ 太宰治 「鴎」
・・・こんな辛い時勢に生れて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生れて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生れて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。 ラジオは、・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・故郷の雰囲気に触れると、まるで身体が、だるくなり、我儘が出てしまって、殆ど自制を失うのである。自分でも、おやおやと思うほど駄目になって、意志のブレーキが溶けて消えてしまうのである。ただ胸が不快にごとごと鳴って、全身のネジが弛み、どうしても気・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・超人説ケル小心、恐々ノ人ノ子、笑イナガラ厳粛ノコトヲ語レ、ト秀抜真珠ノ哲人、叫ンデ自責、狂死シタ。自省直ケレバ千万人ト言エドモ、――イヤ、握手ハマダマダ、ソノ楯ノウラノ言葉ヲコソ、「自省直カラザレバ、乞食ト会ッテモ、赤面狼狽、被告、罪人、酒・・・ 太宰治 「創生記」
・・・てはなはだ不自由、不面目の生活をしてまいりましたが、こんどは、いかなる武器をも持ってはならん、素手で殴ってもいかん、もっぱら優美に礼儀正しくこの世を送って行かなければならん、というまことに有りがたい御時勢になりまして、そのためにはまず詩歌管・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・教えてやろうか、と鳥渡、腰を浮かしかけたが、いやいやと自制した。ひょっとしたら、あの一団は、雑誌社か新聞社の人たちかも知れない。談話の内容が、どうも文学に無関心の者のそれでは無い。劇団関係の人たちかも知れない。あるいは、高級な読者かも知れな・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・人間は死期が近づくにつれて、どんなに俗な野暮天でも、奇妙に、詩というものに心をひかれて来るものらしい。辞世の歌とか俳句とかいうものを、高利貸でも大臣でも、とかくよみたがるようではないか。 鶴は、浮かぬ顔して、首を振り、胸のポケットから手・・・ 太宰治 「犯人」
・・・ここで時世の色を点綴させるのだね。動物園の火事がいい。百匹にちかいお猿が檻の中で焼け死んだ。」「陰惨すぎる。やはり、明日の運勢の欄あたりを読むのが自然じゃないか。」「僕はお酒をやめて、ごはんにしよう、と言う。女とふたりで食事をする。・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・聯想は聯想を生んで、その身のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、恋人で娶った細君の老いてしまったことや、子供の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて将来に発達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のよう・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ただ人々の態度とおりおり聞こえる単語や、間投詞でおよその事件の推移を臆測し、そうして自分の頭の中の銀幕に自製のトーキー「東京の屋根の下」一巻を映写するのである。 それで「パリの屋根の下」の観客は、この東京の電車や四つ辻におけると同じよう・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫