・・・たとえば、勅使接待の能楽を舞台背景と番組書だけで見せたり、切腹の場を辞世の歌をかいた色紙に落ちる一片の桜の花弁で代表させたりするのは多少月並みではあるがともかくも日本人らしい象徴的な取り扱い方で、あくどい芝居を救うために有効であると思われた・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・その笑談の一つの材料として芭蕉のこの辞世の句が選ばれたことを思い出す。それが「旅に病んで」ではなくて「旅で死んで」というエディションになっていた。それを、首を左右にふりながら少し舌の滑動の怪しくなった口調で繰り返し繰り返し詠嘆する。その様子・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
・・・ 雑草といえば、野山に自生する草で何かの薬にならぬものはまれである。いつか朝日グラフにいろいろな草の写真とその草の薬効とが満載されているのを見て実に不思議な気がした。大概の草は何かの薬であり、薬でない草を捜すほうが骨が折れそうに見えるの・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・つい近くまでわれわれは鉄の弾性とか磁性とかいうことを平気で言って、その「鉄」を作る微晶や固溶体のプランクトンの人別調べは略していた。何万ボルトの電撃という一語であらゆるサージの形を包括していた。放電間隙と電位差と全荷電とが同じならばすべての・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・芭蕉のごときはそれがかなりよくできる人であったことは以上の乏しい例証からもうかがわれる。芭蕉の辞世と称せられる「夢は枯れ野をかけ回る」という言葉が私にはなんとなくここに述べた理論の光のもとにまた特別な意味をもって響いて来るのである。彼はこの・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にしてはなはだしく時勢に後れたるの致すところである。諸君、・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・しかし歴史はいまだかつて、如何なる人の伝記についても、殷々たる鐘の声が奮闘勇躍の気勢を揚げさせたことを説いていない。時勢の変転して行く不可解の力は、天変地妖の力にも優っている。仏教の形式と、仏僧の生活とは既に変じて、芭蕉やハアン等が仏寺の鐘・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・丁度活動写真を見詰める子供のように、自分は休みなく変って行く時勢の絵巻物をば眼の痛なるまで見詰めていたい。明治四十四年七月 永井荷風 「銀座」
・・・思うにこの老幇間もわたくしと同じく、時世と風俗との変遷に対して、都会の人の誰もが抱いているような好奇心と哀愁とを、その胸中に秘していたのだろう。 暖簾外の女郎屋は表口の燈火を消しているので、妓夫の声も女の声も、歩み過る客の足音と共に途絶・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・江戸音曲の江戸音曲たる所以は時勢のために見る影なく踏みにじられて行く所にある。時勢と共に進歩して行く事の出来ない所にある。然も一思いに潔く殺され滅されてしまうのではなく、新時代の色々な野心家の汚らしい手にいじくり廻されて、散々慰まれ辱しめら・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫