・・・――しばらくして吉田はこの間から自分で起こしたことのなかった身体をじりじり起こしはじめた。そして床の上へやっと起きかえったかと思うと、寝床の上に丸くなって寝ている猫をむんずと掴まえた。吉田の身体はそれだけの運動でもう浪のように不安が揺れはじ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・堯はなにか露悪的な気持にじりじり迫られるのを感じながら、嫌悪に堪えたその犬の身体つきを終わるまで見ていた。長い帰りの電車のなかでも、彼はしじゅう崩壊に屈しようとする自分を堪えていた。そして電車を降りてみると、家を出るとき持って出たはずの洋傘・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・蝉がその単調な眠そうな声で鳴いている、寂とした日の光がじりじりと照りつけて、今しもこの古い士族屋敷は眠ったように静かである。 杉の生垣をめぐると突き当たりの煉塀の上に百日紅が碧の空に映じていて、壁はほとんど蔦で埋もれている。その横に門が・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・髪の毛が伸び過ぎて領首がむさくなっているのが手拭の下から見えて、そこへ日がじりじり当っているので、細い首筋の赤黒いところに汗が沸えてでもいるように汚らしく少し光っていた。傍へ寄ったらプンと臭そうに思えたのである。 自分は自分のシカケを取・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・高瀬という友達の言草ではないが、「人間に二通りある――一方の人はじりじり年をとる。他方の人は長い間若くていて急にドシンと陥没ちる」相川は今その言葉を思出して、原をじりじり年をとる方に、自分をドシンと陥没ちる方に考えて見て笑ったが、然し友達も・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・藁の男が入口に立ち塞って、自分を見て笑いながら、じりじりとあとしざりをして、背中の藁を中へ押しこめているのである。「暗いわいの」と女がいうと、「ふふふ」と男は笑っている。打とけた仲かもしれない。 ふたたび藤さんの事を考えつつ行く・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・今思って見ればわたしはお前さんにじりじり引き寄せられていたのだわ。両足を括って水に漬られているようなもので、幾らわたしが手を働かして泳ぐ積りでも、段々と深みへ這入って、とうとう水底に引き込まれるんだわ。その水底にはお前さんが大きな蟹になって・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・坊主殺せば、と言われているが、弱い貧しい人たちを、いちどでも拒否したならば、その拒否した指の先からじりじり腐って、そうして七代のちまで祟られるような気さえしていた。結局ずるずる引きずられながら、かれは何かを待っていた。 ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・たまには勢負けして、吠えながらじりじり退却することもある。声が悲鳴に近くなり、真黒い顔が蒼黒くなってくる。いちど小牛のようなシェパアドに飛びかかっていって、あのときは、私が蒼くなった。はたして、ひとたまりもなかった。前足でころころポチをおも・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・葉の裏だけがじりじり枯れて虫に食われているのだが、それをこっそりかくして置いて、散るまで青いふりをする。あの樹の名さえ判ったらねえ」「死ぬ? 死ぬのか君は?」ほんとうに死ぬかも知れないと小早川は思った。去年の秋だったかしら、なん・・・ 太宰治 「葉」
出典:青空文庫