・・・その言葉は今全く忘れているが、普通にありふれた空虚な辞令でなかったのはたしかである。むしろ双方で無愛想に頭を下げたのだったろうが、自分の事は分らないから、相手の容子だけに驚くのである。文学者だから御世辞を使うとすると、ほかの諸君にすまないけ・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなけれ・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・甚だしきは骨肉相争い、親戚陰に謀り、家名の相続、財産の分配等、争論百出、所謂御家騒動の大波瀾を生じて人に笑わるゝの事例さえなきに非ず。而して其不和争擾の衝に当る者は其時の未亡人即ち今日の内君にして、禍源は一男子の悪徳に由来すること明々白々な・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍を・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・それからその辞令をみんなに一人ずつ見せて挨拶してあるき、おしまいに会計に行きましたら、会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたが、だまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・伝記を読むと彼はその官職に就いて辞令をうけた日、従来一個の文学者としての立場からその学芸欄に関係を持っていた諸新聞と、改めて関係を断っている。このような些細なことに現れる不自由は、作家としての彼に闊達な振舞を内面的にも外部的にも拘束しがちで・・・ 宮本百合子 「今日の文学の鳥瞰図」
・・・ ―月―日 あまりに、あまりに婉曲な辞令、便宜上の小手段、黙契をもって交換的にする尊敬の庇護、私は皆、嫌いだ。 広い広い野原に行きたい。大きな声で倒れるまで叫んで駈けまわりたい。大鷲の双翼を我に与えよ」 けれども、これ等の断・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・この市長というは土地の名家で身の丈高く辞令に富んだ威厳のある人物であった。『アウシュコルン、』かれは言った、『今朝、ブーズヴィルの途上でイモーヴィルのウールフレークの遺した手帳をお前が拾ったの見たものがある。』 アウシュコルンはなぜ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫