・・・何も急く旅でもなしいっそ人力で五十三次も面白かろうと、トウトウそれと極ってからかれこれ一月の果を車の上、両親の膝の上にかわるがわる載せられて面白いやら可笑しいやらの旅をした事がある。惜しい事には歳が歳であったから見もし聞きもした場所も事実も・・・ 寺田寅彦 「車」
・・・宅へ電話をかけてもらおうかと思ったがまあ急く事はないと思ったりした。 そのうちに見知らぬ医者が来た。脈を取ったり血を検査したりしたが、別に何も云わないから、自分で胃潰瘍だという事を話して吐血前の容体を云おうとしたが声を出す力がなくて、そ・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・外の方では気が急くか、厚い樫の扉を拳にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に返った。紙片を急に懐へかくす。敲く音は益逼って絶間なく響く。開けぬか・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫