・・・ おど、おどしている女房に、こう云った利平は、先刻までの、自信がすっかりなくなってキョロキョロしていた。 徳永直 「眼」
・・・わたくしは先刻茶を飲んだ家の女に教えられた改正道路というのを思返して、板塀に沿うて其方へ行って見ると、近年東京の町端れのいずこにも開かれている広い一直線の道路が走っていて、その片側に並んだ夜店の納簾と人通りとで、歩道は歩きにくいほど賑かであ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・と先刻の対手が喚びかけた。太十はまたごろりとなった。「おっつあん縛ったぞ」 三次の声で呶鳴った。「いいから此れ引っこ抜くべ」という低い声が続いて聞えた。「おっつあん此のタンボク引っこぬくかんな」 其声が太十の耳に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しかるに先刻から津田君の容子を見ると、何だかこの幽霊なる者が余の知らぬ間に再興されたようにもある。先刻机の上にある書物は何かと尋ねた時にも幽霊の書物だとか答えたと記憶する。とにかく損はない事だ。忙がしい余に取ってはこんな機会はまたとあるまい・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・あたかも中学及び高等学校の規定が何と何と、これこれとを修め得ざるものは学生にあらずと宣告するがごとくせねばならん。この条項を備えたる評家はこの条項中のあるものについて百より〇に至るまでの点数を作家に附与せねばならん。この条項のうちわが趣味の・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・さまで優劣の階段を設くる必要なき作品に対して、国家的代表者の権威と自信とを以て、敢て上下の等級を天下に宣告して憚らざるさえあるに、文明の趨勢と教化の均霑とより来る集合団体の努力を無視して、全部に与うべきはずの報酬を、強いて個人の頭上に落さん・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・方角や歩数等から考えると、私が、汚れた孔雀のような恰好で散歩していた、先刻の海岸通りの裏辺りに当るように思えた。 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ か、死を宣告された顔! であった。 彼は安岡が依然のままの寝息で眠りこけているのを見すますと、こんどは風のように帰ってきて、スイッチをひねらないで電球をねじって灯を消した。 そうして開けたドアから風のように出て行った。 安岡は・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・死刑の宣告受けてない以上、どうしても俺は入らない。 私は頑張った。 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ 二 平田は先刻から一言も言わないでいる。酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちら・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫