・・・もちろんこれは君の性分にもよるだろう、しかしそれはどちらでもいい、ともかく一心専念にやっているという事が僕は君の今日成功している所以だと信ずる、成功とも! 教育家としてこの上の成功はないサ。父兄からは十二分の信用と尊敬とを得て何か込み入った・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・たれか愛と永久の別れと両立せしめ得るものぞ。千年万年億々年の別れを悲しまず、実に永久の別れを悲しむ。否、われは永久の別れを信ぜざるなり。愛の命はこの信仰のみ、われらが恋の望みは実にここにあり。否、君のみにあらず、われは一目見しかの旗亭の娘の・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・うつそみの親のみすがた木につくりただに額ずり哭き給ひけん これは先年その木像を見て私が作った歌だ。 この帰省中に日蓮は清澄山での旧師道善房に会って、彼の愚痴にして用いざるべきを知りつつも、じゅんじゅんとして法華経に帰する・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・最近、岐阜の農民の暴動に対して軍隊が出動した。先年の、川崎造船所のストライキに対して、歩兵第三十九聯隊が出動した。三十九聯隊の兵士たちは、神戸地方から入営している。自分の工場に於ける同志や、農村に於ける親爺や、兄弟が、食って行かなければなら・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・日本でも時飛んでもないことをする者があって、先年西の方の某国で或る貴い塋域を犯した事件というのが伝えられた。聞くさえ忌わしいことだが、掘出し物という語は無論こういう事に本づいて出来た語だから、いやしくも普通人的感情を有している者の使うべきで・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・杉村楚人冠は、わたくしにたわむれて、「君も先年アメリカへの往きか返りかに船のなかででも死んだら、えらいもんだったがなァ」といった。彼の言は、戯言である。けれども、実際わたくしとしては、その当時が死すべきときであったかも知れぬ。死に所をえなか・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 一昨年の夏、露国より帰航の途中で物故した長谷川二葉亭を、朝野挙って哀悼した所であった、杉村楚人冠は私に戯れて、「君も先年米国への往きか帰りかに船の中ででも死んだら偉いもんだったがなア」と言った。彼れの言は戯言である、左れど実際私として・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・岡田時彦さんである。先年なくなったが、じみな人であった。あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり述懐して、行儀よく紅茶を一口すすった。 また、こんな話も聞いた。 どんなに永いこと散歩しても、それでも物たりなかった・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・ もう、この辺で、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。それに就いて、……。 それに就いて、さし当っての難関。まず、女たちと上手に別れなければならぬ。思いがそこに到ると、さすが、抜け目の無い彼も、途方にくれて、溜息が出るのだ・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・母は七十歳まで生きて、先年なくなった。女たちは、みなたいへんにお寺が好きであった。殊にも祖母の信仰は異常といっていいくらいで、家族の笑い話の種にさえなっている。お寺は、浄土真宗である。親鸞上人のひらいた宗派である。私たちも幼時から、イヤにな・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
出典:青空文庫