・・・ 市太夫、五太夫は相手きらわず槍を交えているうち、全身に数えられぬほどの創を受けた。それでも屈せずに、槍を棄てて刀を抜いて切り廻っている。七之丞はいつのまにか倒れている。 太股をつかれた柄本又七郎が台所に伏していると、高見の手のもの・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「それは好いが、先生自分で鞭を持って、ひゅあひゅあしょあしょあとかなんとか云って、ぬかるみ道を前進しようとしたところが、騾馬やら、驢馬やら、ちっぽけな牛やらが、ちっとも言うことを聞かないで、綱がこんがらかって、高粱の切株だらけの畑中に立往生・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・ 彼の田虫の活動はナポレオンの全身を戦慄させた。その活動の最高頂は常に深夜に定っていた。彼の肉体が毛布の中で自身の温度のために膨張する。彼の田虫は分裂する。彼の爪は痒さに従って活動する。すると、ますます活動するのは田虫であった。ナポレオ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。 ところでこの苦しむ神、蘇る神の物語は、『熊野の本地』には限らないのである。有名・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫