・・・犬は小さな尾を振りながら、嬉しそうにそこらを歩き廻った。それは以前飼っていた時、彼女の寝台から石畳の上へ、飛び出したのと同じ歩きぶりだった。「おや、――」 座敷の暗いのを思い出したお蓮は、不思議そうにあたりを見廻した。するといつか天・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・そして崩れた波はひどい勢いで砂の上に這い上って、そこら中を白い泡で敷きつめたようにしてしまうのです。三人はそうした波の様子を見ると少し気味悪くも思いました。けれども折角そこまで来ていながら、そのまま引返すのはどうしてもいやでした。で、妹に帽・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・この汐に、そこら中の人声を浚えて退いて、果は遥な戸外二階の突外れの角あたりと覚しかった、三味線の音がハタと留んだ。 聞澄して、里見夫人、裳を前へ捌こうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄に手をかけ、四・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・そうすると、そこら一面石の嵐でござりまして、大石小石の雨がやめどなく降ったそうでござります。五十日のあいだというもの夜とも昼ともあなたわかんねいくらいで、もうこの世が泥海になるのだって、みんな死ぬ覚悟でいましたところ、五十日めごろから出鳴り・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・「そんな物で身受けが出来る代物なら、お前はそこらあたりの達磨も同前だア」「どうせ達磨でも、憚りながら、あなたのお世話にゃアなりませんよ――じゃア、これはどう?」帯の間から小判を一つ出した。「これなら、指輪に打たしても立派でしょう?」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 椿岳は着物ばかりでなく、そこらで売ってる仕入物が何でも嫌いで皆手細工であった。紙入や銭入も決して袋物屋の出来合を使わないで、手近にあり合せた袋で間に合わしていた。何でも個性を発揮しなければ気が済まないのが椿岳の性分で、時偶市中の出来合・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・その男はしばらくそこらを見廻していたが、やがて舌打をして、「阿母、俺の着て寝る布団がねえぜ。」と上り口から呶鳴った。「ああそう、忘れていた、今夜は一人殖えたんだから。」と言う上さんの声がして、間もなく布団を抱えて上ってきた。 男・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 目に見えるほどの塵一本見のがさず、坐っている客を追いたてて坐蒲団をパタパタはたいたり、そこらじゅう拭きまわったり、ただの綺麗好きとは見えなかった。祝言の席の仕草も想い合わされて、登勢はふと眼を掩いたかったが、しかしまた、そんな狂気じみ・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ 午下りの暑い盛りなので、そこらには人通りは稀であった。二人はそこの電柱の下につくばって話した。 警官――横井と彼とは十年程前神田の受験準備の学校で知り合ったのであった。横井はその時分医学専門の入学準備をしていたのだが、その時分下宿・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「勝子がそこらにいますで、よぼってやっとくなさい」と義母が言った。 袖の長い衣服を着て、近所の子らのなかに雑っている勝子は、呼ばれたまま、まだなにか言いあっている。「『カ』ちうとこへ行くの」「かつどうや」「活動や、活動や・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫