・・・好ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝まるように云った。「私もそりゃ、最初から貴方を車夫馬丁同様の人物と考えたんだと、そりゃどんな強い手段も用いたのです。がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居ら・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・私が二人ともそれぞれ忙がしい体だからと言いますと、彼も納得して、それでは弟達を呼んで呉れと言います。其処で私が、何故そんな事を言うのか、斯うしてお母さんと二人で居ればよいではないか、と言っても彼は「いいえ、僕は淋しいのです。それでは氷山さん・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そんなわけで、耳を引っ張られることに関しては、猫はいたって平気だ。それでは、圧迫に対してはどうかというと、これも指でつまむくらいでは、いくら強くしても痛がらない。さきほどの客のように抓って見たところで、ごく稀にしか悲鳴を発しないのである。こ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ よんどころなく善平は起き直りて、それでは仲直りに茶を点れようか。あの持って来た干菓子を出してくれ。と言えば、知りませぬ。と光代はまだ余波を残して、私はお湯にでも参りましょうか。と畳みたる枕を抱えながら立ち上る。そんなことを言わずに、こ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・『マアどうしたらよかろう、かあいそうに』とお絹は泣き伏しぬ。『それでは遺言どおりこの百円はお前に渡すから確かに受け取っておくれ』と叔父の出す手をお絹は押しやって『叔父さんわたしは確かに受け取りました吉さんへはわたしからお礼をいい・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 日蓮の出家求道の発足は認識への要求であった。彼の胸中にわだかまる疑問を解くにたる明らかなる知恵がほしかったのだ。それでは彼の胸裡の疑団とはどんなものであったか。 第一には何故正しく、名分あるものが落魄して、不義にして、名正しか・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・という言葉だけしか知らなかった。それでは話が出来なかった。「どこに住んでいるんだ。」 露西亜語できいてみた。 黄色い歯を見せて老人は何か云った。語調が哀れで悄然としていた。唇が動くにつれて、鰌髭が上ったり下ったりした。返事は露西・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・しかるにまた大多数の人はそれでは律義過ぎて面白くないから、コケが東西南北の水転にあたるように、雪舟くさいものにも眼を遣れば応挙くさいものにも手を出す、歌麿がかったものにも色気を出す、大雅堂や竹田ばたけにも鍬を入れたがる、運が好ければ韓幹の馬・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・その時にも彼女の方では、どうしてもそんな病院などには入らないと言い張ったが、旦那が入れと言うものだから、それではどうも仕方がないとあきらめて、それから一年ばかりをあの病院に送って来たことがある。その時の記憶が復た帰って来た。おげんはあの牢獄・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ そうすると王さまは、「お前はわしに隠しだてをするのか。それではわしが話してやろう。これはこの世界中で一ばん美しい王女の顔だ。」とお言いになりました。 王さまは今ではよほど年を取ってお出でになるのですが、まだこれまで一度も王妃が・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
出典:青空文庫