・・・固よりそんな事は思わぬ。人間世界の善悪が、善悪の外に立つ神の世界の恋に影響のしようがない。しかし火つけが悪い事と感じた瞬間には、本心に咎める所があって、あんな事をせなんだら善かったと思わずには居られまいと思うがどうであろうか。なかなか以てそ・・・ 正岡子規 「恋」
・・・けれどもぼくが父とふたりでいろいろな仕事のことを云いながらはたらいているところを読んだら、ぼくを軽べつする人がきっと沢山あるだろう。そんなやつをぼくは叩きつけてやりたい。ぼくは人を軽べつするかそうでなければ妬むことしかできないやつらはいちば・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ ふき子は、びっくりしたように、「あら本気なの、陽ちゃん」といった。「本気になりそうだわ――ある? そんな家……もし本当にさがせば」「そりゃあってよ、どこだって貸すわ、でも――もし来るんならそんなことしないだって、家へいらっ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・』 アウシュコルンはなぜそんな不審が自分の上にかかったものか少しもわからないので、もうはや懼れて、言葉もなく市長を見つめた。『わしがって、わしがその手帳は拾ったッて。』『そうだ、お前がよ。』『わしは誓います、わしはてんでそん・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・書いてあるのは毒にも薬にもならないような事であるか、そうでなければ、木村が不公平だと感ずるような事であるからである。そんなら読まなくても好さそうなものであるが、やはり読む。読んで気のない顔をしたり、一寸顔を蹙めたりして、すぐにまた晴々とした・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・どうかすると二三日くらい拘留せられていることもある。そんな時は女房が夜も昼も泣いている。拘留場で横着を出すと、真っ暗い穴に入れられる。そんな時はツァウォツキイも「ああ、おれはなんと云う不しあわせものだろう」とこぼしている。 ある時ツァウ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・いやむしろ、そんなものは希としては持っているだけで、成功などということはあろうとは思えないのである。これは前にも書いたことで今始めて書くことではないが、作品の上では、成功というような結構なものはありはしないと思っている。書く場合に書くことを・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・ その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格の立派なのと、項を反せて、傲然としているのとのためであっただろう。「エルリングです」と答えて、軽く会釈して、男は出て行った。 エルリングというのは古い・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・この噂を聞いて「それは嘘だ、殿様に限ってそんな白痴をなさろうはずがない」といい罵るものもありましたが、また元の奥様を知っていた人から、すぐに聞たッて、一々ほんとうだといい張る者さえあったんです。その話というはこうなんです。 人の知らない・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・しかしすぐその場で自分に最も近い者をさえも十分愛してやれないくせに、そんな事を考え続けたって何になるでしょう。しかもそれが、その運命に対しては無限の責任と恐ろしさとを感じている自分の子供なのです。不断に涙をもって接吻しつづけても愛したりない・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫