・・・ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、顧盻って見ると諸方の演説会で見覚えの島田沼南であった。例の通りに白壁のように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・う職業を賤視する人たちの祖先たる武士というものも亦一つの職業であって封建の家禄世襲制度の恩沢を蒙むって此の武士という職業が維持せられたればこそ日本の大道楽なるかの如く一部の人たちに尊奉せらるゝ武士道が大成したので、若し武士が家禄を得る道なく・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・女の写真屋を初めるというのも、一人の女に職業を与えるためというよりは、救世の大本願を抱く大聖が辻説法の道場を建てると同じような重大な意味があった。 が、その女は何者である乎、現在何処にいる乎と、切込んで質問すると、「唯の通り一遍の知り合・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・文壇の大勢に、時としては、反抗したものを書き、それを売らなければ、ならぬということは、すでに其処に矛盾が存していたからです。 少しの貯えもなく、家庭に欠乏を告げているにかゝわらず、机に向って、自分の理想を描こうとする――そこには、精神だ・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・すると、今度、赤ちゃんは、大声を上げて泣き出してしまいました。お母さんは、お困りになりました。「さあ、チンチンゴーゴーを見てきましょうね。」と、泣き叫ぶ、赤ちゃんを抱いて立ち上がられました。「お母さん、どこへゆくの?」と、義ちゃんは・・・ 小川未明 「僕は兄さんだ」
・・・ 私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふと社の裏手の明き地に大勢人が集まっているのを見つけました。 側へ寄って見ると、そこには小屋掛もしなければ、日除もしてないで、唯野天の平地に親子らしいお爺さんと男の子が立っていて・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・変りな題材と粘り強い達者な話術を持って若くして文壇へ出た時、私は彼の逞しい才能にひそかに期待して、もし彼が自重してその才能を大事に使うならば、これまでこの国の文壇に見られなかったような特異な作家として大成するだろうと、その成長を見守っていた・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・既に事変下で、新体制運動が行われていたある日の新聞を見ると、政府は国民の頭髪の型を新体制型と称する何種類かの型に限定しようとしているらしく、全国の理髪店はそれらの型に該当しない頭髪の客を断ることを申し合わせたというのである。 私はことの・・・ 織田作之助 「髪」
・・・周囲に阿呆が大勢いてくれたおかげで、当時の私はいくらか自分が利巧であるように思い込んでいたことは事実だが、しかし果して私は利巧であったかどうか。 私は生れつき特権というものを毛嫌いしていたので、私の学校が天下の秀才の集るところだという理・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ 電車の中では新吉の向い側に乗っていた二人の男が大声で話していた。「旧券の時に、市電の回数券を一万冊買うた奴がいるらしい」「へえ、巧いことを考えよったなア。一冊五円だから、五万円か。今、ちびちび売って行けば、結局五万円の新券がは・・・ 織田作之助 「郷愁」
出典:青空文庫