・・・その存在は、たとえ、小さな火であっても、いつか人生の核心を焼きつくすに足るからである。 毎日、幾何の人間が、深き省察のなかったがために、また自からを欺いたがために社会の空しき犠牲となりつゝあるか。そして、彼等の狂騒と私等は、この人生にと・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・夜は十二時一時と次第に深けわたる中に、妻のお光を始め、父の新五郎に弟夫婦、ほかに親内の者二人と雇い婆と、合わせて七人ズラリ枕元を囲んで、ただただ息を引き取るのを待つのであった。力ない病人の呼吸は一息ごとに弱って行って、顔は刻々に死相を現わし・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・しまいには掴み合いの喧嘩になって、出て行け、ああ、出て行ったるわい。おばはんとうとう出て行きよったが、出て行きしな、風呂敷包持って行ったンはええけど、里子の俺は置いてきぼりや。おかげで、乳は飲めん、お腹は空いてくる、お襁褓はかえてくれん、放・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・に足るほどのことでもなかった。同じ「あばく」なら、書き洩らしたところに、もっと効果的な材料があった筈だ。 すなわち、成績のわるい支店の鼻の先に、何の前触れもなしに、いきなり総発売元の直営店を設置したのがそれだ。大阪でいうならば、難波の前・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・これはね、曖眛な思想や信ずるに足りない体系に代るものとして、これだけは信ずるに足る具体性だと思ってやってるんですよ。人物を思想や心理で捉えるかわりに感覚で捉えようとする。左翼思想よりも、腹をへらしている人間のペコペコの感覚の方が信ずるに足る・・・ 織田作之助 「世相」
・・・月の光を浴びて身辺処々燦たる照返を見するのは釦紐か武具の光るのであろう。はてな、此奴死骸かな。それとも負傷者かな? 何方でも関わん。おれは臥る…… いやいや如何考えてみても其様な筈がない。味方は何処へ往ったのでもない。此処に居るに相・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・その破れた箇所には、また巧妙な補片が当っていて、まったくそれは、創造説を信じる人にとっても進化論を信じる人にとっても、不可思議な、滑稽な耳たるを失わない。そしてその補片が、耳を引っ張られるときの緩めになるにちがいないのである。そんなわけで、・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・膳の通い茶の通いに、久しく馴れ睦みたる婢どもは、さすがに後影を見送りてしばし佇立めり。前を遶る渓河の水は、淙々として遠く流れ行く。かなたの森に鳴くは鶇か。 朝夕のたつきも知らざりし山中も、年々の避暑の客に思わぬ煙を増して、瓦葺きの家も木・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ウ』と調子を取られ候くらい、母上もまたあえて自らワッペウ氏をもって任じおられ候、天保できの女ワッペウと明治生まれの旧弊人との育児的衝突と来ては実に珍無類の滑稽にて、一家常に笑声多く、笑う門には福来たるの諺で行けば、おいおいと百千万両何の・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・に至るまで、もしこれをよそで見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高台の嫌いなく、林をくぐり、野を横切り、隠れつ現われつして、しかも曲りくねって流るる趣は春夏秋冬に通じて吾らの心を惹くに足るものがある。自分はもと山多き地方に生・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
出典:青空文庫