・・・ およそありの儘に思う情を言顕わし得る者は知らず/\いと巧妙なる文をものして自然に美辞の法に称うと士班釵の翁はいいけり真なるかな此の言葉や此のごろ詼談師三遊亭の叟が口演せる牡丹灯籠となん呼做したる仮作譚を速記という法を用いてそのまゝ・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・「露国の名誉ある貴族たる閣下に、御遺失なされ候物品を返上致す機会を得候は、拙者の最も光栄とする所に有之候。猶将来共。」あとは読んでも見なかった。 おれはホテルを出て、沈鬱して歩いていた。頼みに思った極右党はやはり頼み甲斐のない男であった・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・の先頭に立つものではない、強い性格者であり認識の促進者たるべき人の多面性は語学知識の広い事ではなくて、むしろそんなものの記憶のために偏頗に頭脳を使わないで、頭の中を開放しておく事にある、と云っている。「人間は『鋭敏に反応する』ように教育・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・そうしてそのモンタージュの必然的な正確さから言ってもその推移のリズムの美しさから言っても、そのままに今の映画製作者の模範とするに足るものは至るところに見いださるるであろう。しかし現代の日本人から忘れられ誤解されている連句は本家の日本ではだれ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・このような熱力学第二方則の完全な否定は、実にわれわれ固有の世界観を根底よりくつがえすに足るものである。 時を逆行させることによって起こるもう一つの不思議は、決定的の世界が不決定になることである。たとえば摩擦のある撞球台の上で球をころがす・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・企は失敗して、彼らは擒えられ、さばかれ、十二名は政略のために死一等を減ぜられ、重立たる余の十二名は天の恩寵によって立派に絞台の露と消えた。十二名――諸君、今一人、土佐で亡くなった多分自殺した幸徳の母君あるを忘れてはならぬ。 かくのごとく・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・縁端にずらり並んだ数十の裸形は、その一人が低く歌い出すと、他が高らかに和して、鬱勃たる力を見せる革命歌が、大きな波動を描いて凍でついた朝の空気を裂きつつ、高く弾ねつつ、拡がって行った。 ……民衆の旗、赤旗は…… 一人の男は、跳び上る・・・ 徳永直 「眼」
・・・是亦明治風俗史の一資料たることを失わない。殊に根津遊廓のことに関しては当時の文書にして其沿革を細説したものが割合に少いので、わたくしは其長文なるを厭わず饒歌余譚の一節をここに摘録する事とした。徒に拙稿の紙数を増して売文の銭を貪らんがためでは・・・ 永井荷風 「上野」
・・・わたくしの一生涯には独特固有の跡を印するに足るべきものは、何一つありはしなかった。 日本の歴史は少年のころよりわたくしに対しては隠棲といい、退嬰と称するが如き消極的処世の道を教えた。源平時代の史乗と伝奇とは平氏の運命の美なること落花の如・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・太十は従来農家の附属物たる馬ととの外には動物は嫌いであった。猫も二三度飼ったけれど皆酷く窶れて鳴声も出せないように成って死んだ。猫がないので鼠は多かった。竹藪をかぶった太十の家は内も一杯煤だらけで昼間も闇い程である。天井がないので真黒な太い・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫