・・・学校のお友達は、急に私によそよそしくなって、それまで一ばん仲の良かった安藤さんさえ、私を一葉さんだの、紫式部さまだのと意地のわるい、あざけるような口調で呼んで、ついと私から逃げて行き、それまであんなにきらっていた奈良さんや今井さんのグルウプ・・・ 太宰治 「千代女」
・・・つかまえようとするとついと逃げる。めだかのほうは数千年来人間におどかされて来たが、みずすましのほうは昔から人間に無視されて来たせいではないかと思われる。 蚊ぐらいの大きさのみずすましの子供が百匹以上も群れていたのが、わずか数日の間にもう・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・蜻とんぼが足元からついと立って向うの小石の上へとまって目玉をぐるぐるとまわしてまた先の小石へ飛ぶ。小溝に泥鰌が沈んで水が濁った。新屋敷の裏手へ廻る。自分と精とは一町ばかり後をついて行く。北の山へ雲の峰が出て新築の学校の屋根がきらきらしている・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・ところが短かい談話で、国民文学記者にコンラッドだけを詳しく話す余地がなかったので、ついと日高君の誤解を招くに至ったのは残念である。 要するに日高君の御説ははなはだごもっともなのである。けれども余のコンラッドを非難した意味、及びこの意味に・・・ 夏目漱石 「コンラッドの描きたる自然について」
・・・ 吉里は何も言わず、ついと立ッて廊下へ出た。善吉も座敷着を被ッたまま吉里の後から室を出た。「花魁、お手拭は」と、お熊は吉里へ声をかけた。 吉里は返辞をしない。はや二三間あちらへ行ッていた。「私におくれ」と、善吉は戻ッて手拭を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・くろへ腰掛けてこぼこぼはっていく温い水へ足を入れていてついとろっとしたらなんだかぼくが稲になったような気がした。そしてぼくが桃いろをした熱病にかかっていてそこへいま水が来たのでぼくは足から水を吸いあげているのだった。どきっとして眼をさました・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 庭へついと、遠い遠い彼方の空の高みから、一羽の小鳥が飛んで来た。すっと、軽捷な線を描いて、傍の檜葉の梢に止った。一枝群を離れて冲って居る緑の頂上に鷹を小型にしたような力強い頭から嘴にかけての輪廓を、日にそむいて居る為、真黒く切嵌めた影・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 心に何もない幼児のように、ついと嘴を押して、ぴったり隣によりついた仲間の羽虫をとってやる。いい心持なのだろう。取られる方は、のびのびと眼をつぶり、頭の上にあおむけ、いつまでもいつまでもという風に喉の下などを任せている。仲間がもうやめに・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・丁度、燕が去年巣をかけた家の軒先を、又今年もついとくぐるような親しさで。 台から台へと廻って歩き、懐が許せば一箇の茶色紙包が、私の腕の下に抱え込まれるだろう。けれども、その楽しい収穫がいつもあるとは定っていない。三度に二度は、空手で出る・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・こう言い放って、数馬はついと起って館を下がった。 このときの数馬の様子を光尚が聞いて、竹内の屋敷へ使いをやって、「怪我をせぬように、首尾よくいたして参れ」と言わせた。数馬は「ありがたいお詞をたしかに承ったと申し上げて下されい」と言った。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫