・・・自分が子供を叱る時には妻は一切口を出さぬ事にしている。」とか云って、博士はそれを継母の罪でないように云っている。しかし、子供の教育は必ずしも母親自身の学問の程度に関るものではない。それに学問がないから虐めることが出来ないなどというのは、如何・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・あれはいつだったっけ、何でも俺が船へ乗り込む二三日前だった、お前のところへ暇乞いに行ったら、お前の父が恐ろしく景気つけてくれて、そら、白痘痕のある何とかいう清元の師匠が来るやら、夜一夜大騒ぎをやらかしたあげく、父がしまいにステテコを踊り出し・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・見ると右の手の親指がキュッと内の方へ屈っている、やがて皆して、漸くに蘇生をさしたそうだが、こんな恐ろしい目には始めて出会ったと物語って、後でいうには、これは決して怨霊とか、何とかいう様な所謂口惜しみの念ではなく、ただ私に娘がその死を知らした・・・ 小山内薫 「因果」
・・・女はヒステリックになにごとか叫んでいた。 夕闇が私の部屋に流れ込んで来た。いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なので、あきれていると、女の歌声もまじり出した。私はますますあきれた。そこへ夕飯がはこばれて来た。 電燈・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・と気がるに蘊藻浜敵前渡河の決死隊に加わって、敵弾の雨に濡れた顔もせず、悠悠とクリークの中を漕ぎ兵を渡して戦死したのかと、佐伯はせつなく、自分の懶惰がもはや許せぬという想いがぴしゃっと来た。ひっそりとした暮色がいつもの道に漂うていた。「つまり・・・ 織田作之助 「道」
・・・「いや私も近頃は少し脳の加減を悪るくして居りましてな」とか、「えゝその、居は心を移すとか云いますがな、それは本当のことですな。何でも斯ういう際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了うんですな。第一処が変れば周囲の空気からして変るというもんで・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
彼は永年病魔と闘いました。何とかしてその病魔を征服しようと努力しました。私も又彼を助けて、共にその病魔を斃そうと勉めましたが、遂に最後の止めを刺されたのであります。 本年二月二十六日の事です。何だか身体の具合が平常と違・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・こんなに酒を飲むにしても、どこか川っぷちのレストランみたいなところで、橋の上からだとか向こう岸からだとか見ている人があって飲んでいるのならどんなに楽しいでしょう。『いかにあわれと思うらん』僕には片言のような詩しか口に出て来ないが、実際いつも・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・そして男子の太い声と婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、そして「たえなるめぐみ」とか「まことのちから」とか「愛の泉」とかいう言葉をもって織り出された幾節かの歌を聞きながら立っていますと、総身に、ある戦慄・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 性の欲求、恋愛は人間の本性上、ことに男子にとっては、自由を欲するものであって、それはまた生活精力上、審美上、優生学上の機微とからまり、自然の不思議な意志が織りこまれているものである。この天然と生命との機微を無視するキリスト教的、人道主・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
出典:青空文庫