・・・豪華な昔しの面影を止めた古いこの土地の伝統的な声曲をも聞いた。ちょっと見には美しい女たちの服装などにも目をつけた。 この海岸も、煤煙の都が必然展けてゆかなければならぬ郊外の住宅地もしくは別荘地の一つであった。北方の大阪から神戸兵庫を経て・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・として背なかにむすんだ兵児帯のはしをふりながらかけ足で歩く、板裏草履の小娘。「ぱっぱ女学生」と土地でいわれている彼女たちは、小刻みに前のめりにおそろしく早く歩く。どっちかの肩を前におしだすようにして、工場の門からつきとばされたいきおいで、三・・・ 徳永直 「白い道」
・・・然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに堪えないと云うことである。 不忍池の周囲は明治十六七年の頃に埋立てられて競馬場となった。一・・・ 永井荷風 「上野」
・・・晩秋の収穫季になると何処でも村の社の祭をする。土地ではそれをマチといって居る。マチは村落によって日が違った。瞽女はぐるぐるとマチを求めて村々をめぐる。太十の目には田の畔から垣根から庭からそうして柿の木にまで挂けらえた其稲の収穫を見るより瞽女・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・御蔭で私もまだ見ない土地や名所などを捜る便宜を得ましたのは好都合です。そのついでに演説をする――のではない演説のついでに玉津島だの紀三井寺などを見た訳でありますからこれらの故跡や名勝に対しても空手では参れません。御話をする題目はちゃんと東京・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・そのため道のおぼえが悪く、少し慣れない土地へ行くと、すぐ迷児になってしまった。その上私には、道を歩きながら瞑想に耽る癖があった。途中で知人に挨拶されても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりす・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・かの西洋諸国の人民がいわゆる野蛮国なるものを侵して、次第にその土地を奪い、その財産を剥ぎ、他の安楽を典して自から奉ずるの資となすが如き、その処置、毫も盗賊に異ならず。 在昔、欧羅巴の白人が亜米利加に侵入してその土人を逐い、英人が印度地方・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・ そのうちお互に何も口に出さずにいて、とうとうあなたは土地を離れておしまいなさいました。それはあなたははにかんでいらっしゃる、わたくしはあなたを預託品のように思っていましたからでございます。一体わたくしは前から堅気な女で、今でも堅気でい・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ところが学校の門を這入る頃から、足が土地へつかぬようになって、自分の室に帰って来た時は最早酔がまわって苦しくてたまらぬ。試験の用意などは思いもつかぬので、その晩はそれきり寐てしまった。すると翌日の試験には満点百のものをようよう十四点だけもら・・・ 正岡子規 「酒」
・・・「ぼくなんか落ちるとちゅうで目がまわらないだろうか。」一つの実がいいました。「よく目をつぶっていけばいいさ。」も一つが答えました。「そうだ。わすれていた。ぼく水とうに水をつめておくんだった。」「ぼくはね、水とうのほかにはっか・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
出典:青空文庫