・・・ある時は八幡宮の石段を数えて登り、一、二、三と進んで七つと止まり、七つだよと言い聞かして、さて今の石段はいくつだとききますと、大きな声で十と答える始末です。松の並木を数えても、菓子をほうびにその数を教えても、結果は同じことです。一、二、三と・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・そして今夜はここへ泊りたまえ。まだ話がたくさん残っておる」 僕もその意に従がい、二人して車屋を出た。路の二三丁も歩いたが、桂はその間も愉快に話しながら、国元のことなど聞き、今年のうちに一度故郷に帰りたいなどいっていた。けれども僕は桂の生・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・山鳩一羽いずこよりともなく突然程近き梢に止まりしが急にまた飛び去りぬ。かれが耳いよいよさえて四辺いよいよ静寂なり。かれは自己が心のさまをながむるように思いもて四辺を見回しぬ。始めよりかれが恋の春霞たなびく野辺のごとかるべしとは期せざりしもま・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・が、文学の上ではともかく、年齢的には、そういう感じを持っている者が、既に芥川が止りとなったところの年を三ツも四ツも通り越している者がたくさんあるだろう。 ○ 文学のことは年齢によってのみはかることは出来ないが、しかし、文学・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・ 吉田は、南京袋のような臭気を持っている若者にねじ伏せられて、息が止まりそうだった。 大きな眼に、すごい輝やきを持っている頑丈な老人が二人を取りおさえた者達に張りのある強い声で何か命令するように云った。吉田の上に乗りかぶさっていた若・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・あらかじめロープをもって銘の身をつないで、一人が落ちても他が踏止まり、そして個の危険を救うようにしてあったのでありますけれども、何せ絶壁の処で落ちかかったのですから堪りません、二人に負けて第三番目も落ちて行く。それからフランシス・ダグラス卿・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・おもしろきさまの巌よと心留まりて、ふりかえり見れば、すぐその傍の山の根に、格子しつらい鎖さし固め、猥に人の入るを許さずと記したるあり。これこそ彼の岩窟ならめと差し覗き見るに、底知れぬ穴一つようぜんとして暗く見ゆ。さてはいよいよこれなりけりと・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・読みしより、訛りて郷平となりたるなりという昔の人の考えを宜ない、国神野上も走りに走り越し、先には心づかざりし道の辺に青石の大なる板碑立てるを見出しなどしつ、矢那瀬寄居もまた走り過ぎ、暗くなりて小前田に泊りたり。 十日、宿を立出でて長善寺・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・淋しいだろうと云うので、泊りにきていた親類の佐野さんや吉本さんが、重ね重ねのことなので、強こうに反対した。だが、お前の母は、「この仕事をしている人達は死んでも場所のことなどは云わないものだから、少しも心配要らない。」と云った。 山崎のガ・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・「姉さん、私と一緒にいらっしゃい――今夜は小間物屋の二階の方へ泊りに行きましょう」 おげんは点頭いた。 暗い夜が来た。おげんは熊吉より後れて直次の家を出た。遠く青白く流れているような天の川も、星のすがたも、よくはおげんの眼に映ら・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫