・・・人を打つ。どうかすると小刀で衝く。窃盗をする。詐偽をする。強盗もする。そのくせなかなかよい奴であった。女房にはひどく可哀がられていた。女房はもとけちな女中奉公をしていたもので十七になるまでは貧乏な人達を主人にして勤めたのだ。 ある日曜日・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 梶はそう云う自分が栖方を狂人と思って話しているのかどうか、それがどうにも分らなかった。すべて真実だと思えば真実であった。嘘だと思えばまた尽く嘘に見えた。そして、この怪しむべきことが何の怪しむべきことでもない、さっぱりしたこの場のただ一・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 彼は漸く浮き上った心を静に愛しながら、筵の上に積っている銅貨の山を親しげに覗くのだ。そのべたべたと押し重なった鈍重な銅色の体積から奇怪な塔のような気品を彼は感じた。またその市街の底で静っている銅貨の力学的な体積は、それを中心に拡がって・・・ 横光利一 「街の底」
・・・それで二人は互に心が分かっているのでございます。どうか致して、珍らしく日が明るく差しますと、わたくし共二人は並んで窓から外を覗いて見ます。なんでも世の中の大きいもの、声高なものは、みんな遠い遠い所に離れているのでございます。海も、森も、村も・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ould love her.Procter : "The Sailor Boy."ミス、プロクトルの“The Sailor Boy”という詩を読みまして、一方ならず感じました。どうかその心持をと思って物語ぶりに書綴っ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・これが導火線となって翌九二年デュウゼは初めてウィーンへはいった。彼女が空虚なるカアル劇場に歩み入った時には一人として彼女を知る者はなかったが、その夜、全市の声は彼女の名を讃えてヴァイオリンのごとく打ち震い、全市の感覚は激動の後渦巻のごとく混・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・僕はどうかして一度逢ってみたいと思う。でなくとも舞台の上の絶妙な演技を味わってみたいと思う。 シモンズの書いた所によると、デュウゼは自分の好きな人と話をする時には、椅子から立ち上がって、その人のそば近くに腰を掛け、ほとんど顔が相触るるま・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・彼女がある役を勤める時には意志の力によって自己をその女に同化してしまう。彼女の感情はその女の感情と同一である。悲しむべき時には泣くまねをするというのではなく、真に感情が動き、真実なる表情となるのである。劇場的身ぶり、誇大したる表情は彼女に見・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫