・・・省作はわれ自らもまた自然中の一物に加わり、その大いなる力に同化せられ、その力の一端がわが肉体にもわが精神にも通いきて、新たなる生命にいきかえったような思いである。おとよさんやおはまや、晴ればれと元気のよい、毛の先ほども憎気のない人たちと打ち・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・「あいにく銅貨が二、三銭と来たら、いかに吉弥さんでも驚くだろう」「この子はなかなか欲張りですよ」「あら、叔母さん、そんなことはないわ」「まア、一つさしましょう」と、僕は吉弥に猪口を渡して、「今お座敷は明いているだろうか?」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・僕に挨拶をしたが、まるめて持っていた手拭としゃぼんとをどこに置こうかとまごついていたが、それを炉のふちへ置いて、「一本、どうか」と、僕のそばの巻煙草入れに手を出した。 その時、吉弥は僕のうしろに坐っているお君の鋭い目に出くわしたらし・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・橋弁慶の行衛は不明であるが、この弁慶が分捕りした銅牌は今でも蓮杖の家に残ってるはずだが、これも多分地震でどうかしてしまったろう。 今戸の大河内家には椿岳に似つかわしい奇妙な大作があった。大河内家の先代輝音侯というは頗る風流の貴族で常に文・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 果然革命は欧洲戦を導火線として突然爆発した。が、誰も多少予想していないじゃないが余り迅雷疾風的だったから誰も面喰ってしまった。その上、東京の地震の火事と同様、予想以上に大きくなったのでいよいよ面喰ってしまった。日本は二葉亭の注文通りに・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・と、のぶ子は、どうかして、そのかわいがってくださったお姉さんを、できるだけよく知ろうとして、ききました。 お母さまは、また目を細くして、過ぎ去った日を思い出すようにして、「それは、美しい娘さんだったよ。みんな通りすがる人が、振り向い・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・そのはずみに、懐中の財布を落とすと、口が開いて、銀貨や、銅貨がみんなあたりにころがってしまったのでした。「あ、しまった!」と、按摩はあわてて両手で地面を探しはじめました。 指のさきは、寒さと、冷たさのために痛んで、石ころであるか、土・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・従って、語る人と聴く者との心の接触から生ずる同化が大切であるのであります。 真実というものが、いかに相手を真面目にさせるか、熱情というものが、いかに相手の心を打つか、こうした時に分るものです、それであるから、語る人の態度は、自から聴く人・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
・・・握飯でもいい、午は米粒にありつきたいのだが、蝦蟇口にはもう二銭銅貨一枚しか残っていない。 私はそこの海岸通りへ出た。海から細く入江になっていて、伝馬や艀がひしひしと舳を並べた。小揚人足が賑かな節を合せて、船から米俵のような物を河岸倉へ運・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・「なあに、出なくってもいいんです。」「じゃ、まあ談していておくんな。何だか心寂しくっていけねえ。」といつもにもないことを言う。「どうかしたんですか。」と私も怪しむと、「なあにね、いろんな事を考えこんでしまって、変な気持になっ・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫