・・・う、そういう本質的内在的な理由もあったであろうが、また一方では、はじめはただ各個人の主観的詠嘆の表現であったものが、後に宮廷人らの社交の道具になり、感興や天分の有無に関せずだれも彼もダンスのステップを習うように歌をよむことになって来たために・・・ 寺田寅彦 「俳句の型式とその進化」
・・・それ故わたくしは先哲の異例に倣うとは言わない。唯死んでも葬式と墓とは無用だと言っておこう。 自動車の使用が盛になってから、今日では旧式の棺桶もなく、またこれを運ぶ駕籠もなくなった。そして絵巻物に見る牛車と祭礼の神輿とに似ている新形の柩車・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・すなわち我が邦の人、横行の文字を読み習うるの始めなり。 その後、宝暦明和の頃、青木昆陽、命を奉じてその学を首唱し、また前野蘭化、桂川甫周、杉田いさい等起り、専精してもって和蘭の学に志し、相ともに切磋し、おのおの得るところありといえども、・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾の記」
・・・ さてまた、子を教うるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば、父母の行状正しからざるべからず。口に正理を唱るも、身の行い鄙劣なれば、その子は父母の言語を教とせずしてその行状を見慣うものなり。いわんや父母・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従って後世芭蕉派と称する者また多くこれに倣う。その寂といい、雅といい、幽玄といい、細みといい、もって美の極となすもの、ことごとく消極的ならざるはなし。ゆえに俳句を学・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・それからいちばんおしまいには鳥や木や石やいろいろのことを習うのでした。 アラムハラドは長い白い着物を着て学者のしるしの垂れ布のついた帽子をかぶり低い椅子に腰掛け右手には長い鞭をもち左手には本を支えながらゆっくりと教えて行くのでした。・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・以下これに倣う。各皮を剥大将「あっいかんいかん。皮を剥いてはいかんじゃ。」特務曹長「急ぎ呑み下せいおいっ。」(一同嚥下大将「ああ情けない。犬め、畜生ども。泥人形ども、勲章をみんな食い居ったな。どうするか見ろ。情けない。うわあ。」・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・よく習うんだよ。決して先生を食べてしまったりしてはいかんぞ。」 子供らはよろこんでニヤニヤ笑って口々に、「おとうさん、ありがとう。きっと習うよ。先生を食べてしまったりしないよ。」と言いました。 クねずみはどうも思わず足がブルブル・・・ 宮沢賢治 「クねずみ」
・・・ 若い者に字を習うということが、案外きまりわるくないと分る。やがて、ピョートルの女房も来る。女房が隣りの女房もつれて来る。「――なるほどねえ、私の名はこう書くのかねえ。こうして字を知りゃお前、書きつけがよめなくて、麦をゴマ化されるこ・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェト同盟の文化的飛躍」
・・・ 四年生になると女学校では西洋歴史を習う。初めての時間、西洋史の先生が教室に入って来られた時、三十二人だったかの全生徒の感情を、愕きと嬉しさとでうち靡かせるようなざわめきがあった。 その女学校の女先生が制服のように着ていたくすんだ紫・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
出典:青空文庫