・・・蠅が一ツ二ツ牛の傍でブン/\羽をならしてとんでいた。……「畜生!」父は稲束を荷って帰った六尺棒を持ってきて、三時間ばかり、牛をブンなぐりつゞけた。牛にすべての罪があるように。「畜生! おどれはろくなことをしくさらん!」 牛は恐れ・・・ 黒島伝治 「二銭銅貨」
・・・ 黄金色の皮に、青味がさして来るまで樹にならしてある夏蜜柑をトシエは親元からちぎって来た。歯が浮いて、酢ッぱい汁が歯髄にしみこむのをものともせずに、幾ツも、幾ツも、彼女はそれをむさぼり食った。蜜柑の皮は窓のさきに放られてうず高くなった。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・といいたるまま、かの学者はクンクンと鼻をならしながら、どうだ分ッたか螺旋法が、少し分ったろう、螺旋法に限るぞ、といい玉う。かの男は閉口してつくづく感心し、なるほどなるほど法螺とはこれよりはじまりけるカネ。・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・なるほどなるほどと自分は感心して、小短冊位の大きさにそれを断って、そして有合せの味噌をその杓子の背で五厘か七厘ほど、一分とはならぬ厚さに均して塗りつけた。妻と婢とは黙って笑って見ていた。今度からは汝達にしてもらう、おぼえておけ、と云いながら・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 自動車は警笛をならした。そこは道が狭まかったのだ。おかみさんはチョッとこっちを振りかえったが、勿論あれ程見知っている俺が、こんな自動車に乗っていようなぞという事には気付く筈もなく――過ぎてしまった。俺は首を窮屈にまげて、しばらくの間う・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・肉屋もこれまで見たこともないきたならしい犬でした。骨ぐみは小さくもありませんが、どうしたのか、ひどくやせほそって、下腹の皮もだらりとしなび下っています。寒いのと、おそらくひもじいのと両方で、からだをぶるぶるふるわせ、下あごをがたがたさせなが・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・わかい巡査部長の号令に従って、皆はいっせいに腰から補縄を出したり、呼笛を吹きならしたりするのであった。俺はその風景を眺め、巡査ひとりひとりの家について考えた。 私たちは山の温泉場であてのない祝言をした。母はしじゅうくつくつと笑ってい・・・ 太宰治 「葉」
・・・ところがその男のよく飼い馴らしたと見える鴉が一羽この男の右の片膝に乗って大人しくすまし込んでいる。そうして時々仔細らしく頭を動かしてあちらを向いたりこちらを向いたり、仰向いたり俯向いたりするのが実に可愛い見物である。しかるに、不思議なことに・・・ 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
・・・しかしいずれも先祖代々百年も使い馴らしたようなものばかりであった。道具も永く使い馴らして手擦れのしたものには何だか人間の魂がはいっているような気がするものであるが、この羅宇屋の道具にも実際一つ一つに「個性」があったようである。なんでも赤あか・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ うちの子供らがあひるを慣らしているのを見て、今まではいっこうにあひるに対する興味がないか、あるいは追い回す以外の可能性を考えなかった近所の子供たちも、とんぼをつかまえて来たりあき鑵にいっぱいいなごを取ってはあひるに食わせることを覚えて・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
出典:青空文庫