・・・若い時分にゃ宇都宮まで俥ひいて、日帰りでしたからね。あアお午後ぶらぶらと向を出て八時なら八時に数寄屋橋まで著けろと云や、丁と其時間に入ったんでさ。……ああ、面白えこともあった。苦しいこともあった。十一の年に実のお袋の仕向が些と腑におちねえこ・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よくしてくれた。大柄な子で、頬っぺたがブラさがるように肥っている。つぶらな眼と濃い眉毛を持っていて、口数はすくない・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・御話にゃならない。大工や植木屋で、仕事をしたことを全部完成ですと言った奴があるよ。銭勘定は会計、受取は請求というのだったな。」 唖々子の戯るるが如く、わたしはやがて女中に会計なるものを命じて、倶に陶然として鰻屋の二階を下りると、晩景から・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・「それが容易く出来るくらいなら苦にゃならないさ。僕だって御菜上の智識はすこぶる乏しいやね。明日の御みおつけの実は何に致しましょうとくると、最初から即答は出来ない男なんだから……」「何だい御みおつけと云うのは」「味噌汁の事さ。東京・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩なら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」「そりゃ分らねえ、分らねえ筈だ、未だ事が持ち上らねえからな、だが二分は持ってるだろう・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・こんなに冷遇ても厭な顔もしないで、毎晩のように来ておいでなんだから、怒らせないくらいにゃしておやりよ」と、小万も吉里が気に触らないほどにと言葉を添えた。「また無理をお言いだよ」と、吉里は猪口を乾して、「はい、兄さん。本統に善さんにゃ気の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ても間違って来る、真実の事はなかなか出ない、髣髴として解るのは、各自の一生涯を見たらばその上に幾らか現われて来るので、小説の上じゃ到底偽ッぱちより外書けん、と斯う頭から極めて掛っている所があるから、私にゃ弥々真劒にゃなれない。 併しなが・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・「やまねこ、にゃあご、ごろごろ さとねこ、たっこ、ごろごろ。」「わあ、うまいうまい。わっはは、わっはは。」「第三とうしょう、水銀メタル。おい、みんな、大きいやつも出るんだよ。どうしてそんなにぐずぐずしてるんだ。」画かきが少し・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・五月には、「お百姓なんて辛いもんだね、私にゃ半日辛棒もなりませんや」と、肩を動して笑った。――本当にこの永い一生、何をして生きて来たんだろう。村の人は、土地に馴れたという丈でやっと犬が吠ないような身装をし、食べ歩いて生きている癖に、・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・「放してくれ、此奴逝わさにゃ、腹の虫が納るかい。」「泣きやがるな!」「何にッ!」 秋三は人々を振り切った。そして、勘次の胸をめがけて突きかかると、二人はまた一つの塊りになって畳の上へぶっ倒れた。酒が流れた。唐の芋が転がった。・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫