・・・ Mは体を濡らし濡らし、ずんずん沖へ進みはじめた。僕はMには頓着せず、着もの脱ぎ場から少し離れた、小高い砂山の上へ行った。それから貸下駄を臀の下に敷き、敷島でも一本吸おうとした。しかし僕のマツチの火は存外強い風のために容易に巻煙草に移ら・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・原をめぐった山々はいずれもわびしい灰色の霧につつまれて、薄い夕日の光がわずかにその頂をぬらしている。 私は荒涼とした思いをいだきながら、この水のじくじくした沼の岸にたたずんでひとりでツルゲーネフの森の旅を考えた。そうして枯草の間に竜胆の・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・すると痩せ細った子供が一人、顔中涙に濡らしたまま貧しい母親の手をひっぱっていた。「あの林檎を買っておくれよう!」 悪魔はちょっと足を休め、ファウストにこの子供を指し示した。「あの林檎を御覧なさい。あれは拷問の道具ですよ。」 ・・・ 芥川竜之介 「三つのなぜ」
・・・楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しか・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、睫を濡らした。「妻の記念だったのです。二人の白骨もともに、革鞄の中にあります。墓も一まとめに持って行くのです。 感ずる仔細がありまして、私は望んで僻境孤立の、奥山家の電信技手に転任されたの・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端に腰を掛けて、時雨に白髪を濡らしていると、其処の亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処にそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆の折返しの跡をつけた、古本の出物がある。定価・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ぼしょぼと降るさみしい日、無事なようにと願い申して、岩殿寺の観音の山へ放した時は、煩っていた家内と二人、悄然として、ツィーツィーと梢を低く坂下りに樹を伝って慕い寄る声を聞いて、ほろりとして、一人は袖を濡らして帰った。が、――その目白鳥の事で・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ と思う平四郎は、涎と一所に、濡らした膝を、手巾で横撫でしつつ、「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ。」……大歎息とともに尻を曳いたなごりの笑が、更に、がらがらがらと雷の鳴返すごとく少年の耳を打つ!……「お煎をめしあがれな。」 目の下の崕が・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・(身を悶お蔦 (はっと泣いて、早瀬に縋一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣の涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・民子は雑巾がけをしてからうっかり忘れてしまって、蓆を入れずに野へ出た処、間がわるくその日雨が降ったから、その蓆十枚ばかりを濡らしてしまった。民子は雨が降ってから気がついたけれど、もう間に合わない。うちへ帰って早速母に詫びたけれど母は平日の事・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
出典:青空文庫