・・・にもどことなしに私の心にピッタリとあう、なつかしさとにおいがただよって居る、髪を一寸ながくして内気なかおにかるい笑と力づよさをうかべて一生懸命に話す若い絵書きの前に、私は髪を一束につかねて、じみな色のネルを着てその人の絵絹の上に細筆を走らせ・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・ 若先生に見て戴くのだからと断って、佐藤が女に再び寝台に寝ることを命じた。女は壁の方に向いて、前掛と帯と何本かの紐とを、随分気長に解いている。「先生が御覧になるかも知れないと思って、さっきそのままで待っているように云っといたのですが・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・「スチルネルは哲学史上に大影響を与えている人で、無政府主義者と云われている人達と一しょにせられては可哀相だ。あれは本名を Johann Kaspar Schmidt と云って、伯林で高等学校の教師をしていた。有名な、唯一者とその所有を出・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・も、スチルネルの「神は幽霊だ」を顧みれば、古いと云わなくてはならない。これも超人という結論が違うのである。 芸術も学問も、パアシイ族の因襲の目からは、危険に見えるはずである。なぜというに、どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・実は夜寝ることも出来なかったのです。あのころはわたくしむやみにあなたを思っていたでしょう。そこで馬鹿らしいお話ですが、何度となく床から起きて、鏡の前へ自分の顔を見にいったのですね。わたくしも自分がかなり風采の好い男だとは思っていました。しか・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・「早く寝るかね。」「いいえ。随分長く起きています。」こんな問答をしているうちに、エルリングは時計を見上げた。「御免なさい。丁度夜なかです。わたしはこれから海水浴を遣るのです。」 己は主人と一しょに立ち上がった。そして出口の方へ行・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫