・・・ しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。その外は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははいりません。しかし嗄・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 洋一は横から覗くように、静な兄の顔を眺めた。「うん、――それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦に好いにおいがするじゃありませんか?」 叔母は答を促すように、微笑した眼を洋一へ向けた。「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ よし、それとても朧気ながら、彼処なる本堂と、向って右の方に唐戸一枚隔てたる夫人堂の大なる御廚子の裡に、綾の几帳の蔭なりし、跪ける幼きものには、すらすらと丈高う、御髪の艶に星一ツ晃々と輝くや、ふと差覗くかとして、拝まれたまいぬ。浮べる眉、・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・さしたての潮が澄んでいるから差し覗くとよく分かった――幼児の拳ほどで、ふわふわと泡を束ねた形。取り留めのなさは、ちぎれ雲が大空から影を落としたか、と視められ、ぬぺりとして、ふうわり軽い。全体が薄樺で、黄色い斑がむらむらして、流れのままに出た・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ その後にようやく景気が立ちなおってからも、一流の大家を除く外、ほとんど衣食に窮せざるものはない有様で、近江新報その他の地方新聞の続き物を同人の腕こきが、先を争うてほとんど奪い合いの形で書いた。否な独り同人ばかりでなく、先生の紹介によっ・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 夜業禁止や、時間制により、工場はある不幸な児童等は救はれたのであるが、尚、眼に見えざる場処に於ての酷使や、無理解より来る強圧を除くには、社会は、常に警戒し、防衛しなければならぬであろう。そして、積極的に彼等がいかなる、境遇に置かれつゝ・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・ 答えがないので、為さんはそっと紙門を開けて座敷を覗くと、お光は不断着を被ったまままだ帯も結ばず、真白な足首現わに褄は開いて、片手に衣紋を抱えながらじっと立っている。「為さん、お前さん本当にそんなことを言ったのかね?」「ええ」と・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ひょいと中を覗くと、それが本堂まで続いていたので、何と派手な葬式だが、いったいどこの何家の葬式かと、訊いてみると、「――阿呆らしい。葬式とちがいまっせ。今日はあんた、灸の日だんがな」 と、嗤われた。が、丹造は苦笑もせず、そして、だん・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ひょいと覗くと、右の眼尻がひどく下った文楽のツメ人形のような顔――見覚えがあった。「横堀じゃないか」小学校で同じ組だった横堀千吉だった。「へえ。――済んまへん」 ふとあげた顔を面目なさそうにそむけた。左の眼から頬へかけて紫色には・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 夜晩く鏡を覗くのは時によっては非常に怖ろしいものである。自分の顔がまるで知らない人の顔のように見えて来たり、眼が疲れて来る故か、じーっと見ているうちに醜悪な伎楽の腫れ面という面そっくりに見えて来たりする。さーっと鏡の中の顔が消えて、あ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
出典:青空文庫