・・・ いかに深夜とはいえ、敗戦の大阪とはいえ、一糸もまとわぬ若い娘の裸の体が、いきなり自分の眼の前に飛び出して来るなんて、戦争の影響で相当太くなっているはずの神経にとっても、これは余りに異様すぎる感覚だった。 しかも、まるでこの異様さを・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・日本は敗戦と共にわびしく貧弱になったが、私は日本とともにわびしく貧弱になることを私の文学のためにおそれる。敗戦と共に小説が下手になったといわれることをおそれる。 私の今日の文学にもし存在価値があるとすれば、私は文学以外のことでは、すべて・・・ 織田作之助 「私の文学」
・・・結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・の起ちかかるを止めるように『戦争はまだ永く続きそうでございますかな』と吉次が座興ならぬ口ぶり、軽く受けて続くとも続くともほんとの戦争はこれからなりと起ち上がり『また明日の新聞が楽しみだ、これで敗戦だと張り合いがないけれど我軍の景気が・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 彼は、シベリヤへ来るまで胸が悪くはなかった。肺尖の呼吸音は澄んで、一つの雑音も聞えたことはなかった。それが、雪の中で冬を過し、夏、道路に棄てられた馬糞が乾燥してほこりになり、空中にとびまわる、それを呼吸しているうちに、いつのまにか、肉・・・ 黒島伝治 「橇」
僕は、女をひとり、殺した事があるんです。実にあっけなく、殺してしまいました。 終戦直後の事でした。僕は、敗戦の前には徴用で、伊豆の大島にやられていまして、毎日毎日、実にイヤな穴掘工事を言いつけられ、もともとこんな痩せ細・・・ 太宰治 「女類」
・・・立てても、私には一向にその人たちを信用する気が起らず、自由党、進歩党は相変らずの古くさい人たちばかりのようでまるで問題にならず、また社会党、共産党は、いやに調子づいてはしゃいでいるけれども、これはまた敗戦便乗とでもいうのでしょうか、無条件降・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・ 彼の宅の呼び鈴の配線に故障があって、その修理を近所の電気屋に頼んであったのがなかなか来てくれなかった。あとで聞いてみると、早慶戦のためにラジオの修繕が忙しくて、それで来られなかったと言うのである。 野球戦の入場券一枚を手に入れるた・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・内山氏の紹介は、「まったく敗戦後のドイツの姿は、今日の日本を彷彿させるものがある」と当時の事情にふれている。大戦後の混乱は有名なマークの暴落をひきおこし、一方にすさまじい成りあがりを生み出しながら、中産階級は没落して、エリカ・マンさえ靴のな・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・生きてかえる可能性が、敗戦のなかにあろうとはおもえなかったから、某誌の勇しぶりに、せめてものこころゆかせをつないだ。大本営発表のほとんどすべてがうそであったとわかった八月十五日からあとしばらくは、さすがの某誌も沈黙した。さっそく話をかえて読・・・ 宮本百合子 「新しい潮」
出典:青空文庫