・・・という声が直ちにこの人の目をおおい隠して、眼前の絵の代わりに自分の頭の中に沈着して黴のはえた自分の寺の絵の像のみが照らし出される。たとえその頭の中の絵がいかに立派でもこれでは困る。手を触れるものがみんな黄金になるのでは飢え死にするほかはない・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・テニスの上手な来客でもこの羽根のはえたボールでは少し見当が違うらしい。婦人の中には特にこの蛾をいやがりこわがる人が多いようである。今から三十五年の昔のことであるがある田舎の退役軍人の家でだいじの一人むすこに才色兼備の嫁をもらった。ところが、・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・ 雨気を帯びた南風が吹いて、浅間の斜面を白雲が幾条ものひもになってはい上がる。それが山腹から噴煙でもしているように見える。峰の茶屋のある峠の上空に近く、巨口を開いた雨竜のような形をしたひと流れのちぎれ雲が、のた打ちながらいつまでも同じ所・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・しかし、またそのおかげで科学が栄え文学が賑わうばかりでなく、批評家といったような世にも不思議な職業が成り立つわけであろう。 寺田寅彦 「観点と距離」
・・・ 今の朝日敷島の先祖と思われる天狗煙草の栄えたのは日清戦争以後ではなかったかと思う。赤天狗青天狗銀天狗金天狗という順序で煙草の品位が上がって行ったが、その包装紙の意匠も名に相応しい俗悪なものであった。轡の紋章に天狗の絵もあったように思う・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ 芝の中からたんぽぽやほおずきやその他いろいろの雑草もはえて来た。私はなんだかそれを引き抜いてしまうのが惜しいような気がするのでそのままにしておくと、いつのまにか母や下女がむしり取るのであった。 夏が進むにつれて芝はますます延びて行・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・毎日繰り返される三原山型の記事にはとうの昔にかびがはえているが、たまに眼をさらす古典には千年を経ても常に新しいニュースを読者に提供するようなあるものがあるような気もする。きのうのうそはきょうはもう死んで腐っている。それよりは百年前の真のほう・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・ うじが成虫になってはえと改名すると急に性が悪くなるように見える。昔は五月蠅と書いてうるさいと読み昼寝の顔をせせるいたずらものないしは臭いものへの道しるべと考えられていた。張ったばかりの天井に糞の砂子を散らしたり、馬の眼瞼を舐めただらし・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・やがて背中に紗の翼のはえた、頭に金の冠を着た子供の天使が二人出て来て基督孩児の両側に立つ。天使の一人はたいへん咳が出て苦しそうで背中の翼がふるえているが、それでも我慢して一生懸命にすましている。そして大きなかわいい目をして私の顔を珍しそうに・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・みぎわには蘆のようなものがはえている所もあった。砂漠にもみぎわにも風の作った砂波がみごとにできていたり、草のはえた所だけが風蝕を受けないために土饅頭になっているのもあった。 夜ひとりボートデッキへ上がって見たら上弦の月が赤く天心にかかっ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫