・・・恥かしいことだけど、どういう訳かその年になるまでついぞ縁談がなかったのだもの、まるでおろおろ小躍りしているはたの人たちほどではなかったにしても、矢張り二十四の年並みに少しは灯のつく想いに心が温まったのは事実だ。けれど、いそいそだなんて、そん・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ああ年少の夢よ、かの蒼空はこの夢の国ならずや、二郎も貴嬢もこのわれもみなかの国の民なるべきか、何ぞその色の遠くして幽かに、恋うるがごとく慕うがごとくはたまどろむごとくさむるがごときや。げにこの天をまなざしうとく望みて永久の希望語らいし少女と・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・舟とどめて互いに何をか語りしと問えど、酔うても言葉すくなき彼はただ額に深き二条の皺寄せて笑うのみ、その笑いはどことなく悲しげなるぞうたてき。「源が歌う声冴えまさりつ。かくて若き夫婦の幸しき月日は夢よりも淡く過ぎたり。独子の幸助七歳の時、・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・彼の説教の態度が予言者的なゼスチュアを伴ったものであったことはたやすく想像できる。彼は「権威ある者の如く」に語り、既成教団をせめ、世相を嘆き、仏法、王法二つながら地におちたことを悲憤して、正法を立てて国を安らかにし、民を救うの道を獅子吼した・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・そして、軍曹から初年兵の後藤にいたるまで、自分たちはたゞ、自分たち八人だけだという感じを深くした。 中山服は、彼等を見ると、間が抜けたようにニタ/\と笑った。つゞいて、あとからも一人顔を出した。それも同じように間が抜けた、のんびりした顔・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・それまでは、彼はたゞ一本のみずみずしい青葉をつけた樹を見るように彼女を見ていたゞけだった。まもなく彼は、話があるから廃坑へ行かないかと、彼女に切出した。「なアに?」 彼女は、あどけない顔をしていた。「話だよ。お前をかっさらって、・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・妖術幻術というはただ字面の通りである。しかし支那流の妖術幻術、印度流の幻師の法を伝えた痕跡はむしろ少い。小角や浄蔵などの奇蹟は妖術幻術の中には算していないで、神通道力というように取扱い来っている。小角は道士羽客の流にも大日本史などでは扱われ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻きまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかり・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・いつも逢う顔に違ったところで逢うと、なんだか他人でないような気がするものだが、男もそう思ったとみえて、もう少しで会釈をするような態度をして、急いだ歩調をはたと留めた。娘もちらとこっちを見て、これも、「あああの人だナ、いつも電車に乗る人だナ」・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・しかしこの天井を取払うと鶴はたちまち冲天に舞上がる。すると亀はもうとても追付く望みはないとばかりやけくそになって、呑めや唄えで下界のどん底に止まる。その天井を取払ったのが老子の教えである」というのである。何のことだかちっとも分からない。しか・・・ 寺田寅彦 「変った話」
出典:青空文庫