・・・ 彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の曠野と、四角ばった煉瓦の兵営と、撃ち合いばかりだ。 誰のために彼等はこういうところで雪に埋れていなければならないだろう。それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。懐手をして、彼等を酷使・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・夫はまるで自分というものの居ることを忘れはてているよう、夫は夫、わたしはわたしで、別々の世界に居るもののように見えた。物は失われてから真の価がわかる。今になって毎日毎日の何でも無かったその一眼が貴いものであったことが悟られた。と、いうように・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・いつぞや遠く満州の果てから家をあげて帰国した親戚の女の子の背丈までもそこに残っている。私の娘も大きくなった。末子の背は太郎と二寸ほどしか違わない。その末子がもはや九文の足袋をはいた。 四人ある私の子供の中で、身長の発育にかけては三郎がい・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・けれども世界の一ばんはての遠いところにおいでになるのです。そこまでいくには第一に大きな船がいります。それも、すっかりマホガニイの木でこしらえて、銅の釘で打ちつけて、銅の板でくるんだ、丈夫な船でないと、とても向うまでいく間持ちません。」と馬は・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・はるかの果てに地方の山が薄っすら見える。小島の蔭に鳥貝を取る船が一と群帆を聯ねている。「ね、鳩が餌を拾うでしょう」と藤さんがいう。「芝生に何か落ちてるんでしょうか」「あたしがさっき撒いておいたんです。いつでもあそこへ餌を撒くんで・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・而もこの声楽家は、許嫁との死別の悲しみに堪えずしてその後間もなく死んでしまったが、許嫁の妹は、世間の掟に従って、忌の果てには、心置きなく喪服を脱いだのであった。 これは、私の文章ではありません。辰野隆先生訳、仏人リイル・アダン氏の小話で・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・何々教授の講義ノオトを、学校を卒業して十年のちまで後生大事に隠し持って、機会在る毎にそれをひっぱり出し、ええと、美は醜ならず、醜は美ならず、などと他愛ない事を呟き、やたらに外国人の名前ばかり多く出て、はてしなく長々しい論文をしたため、なむ学・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・綿のように疲れ果てた身でも、この圧迫にはかなわない。 無意識に輾転反側した。 故郷のことを思わぬではない、母や妻のことを悲しまぬではない。この身がこうして死ななければならぬかと嘆かぬではない。けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そんなもの・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 北欧の、果てもなき平野の奥に、白樺の森がある。歎くように垂れた木々の梢は、もう黄金色に色づいている。傾く夕日の空から、淋しい風が吹き渡ると、落葉が、美しい美しい涙のようにふり注ぐ。 私は、森の中を縫う、荒れ果てた小径を、あてもなく・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・そのころのスケッチ帳に亮の妻が亮の寝顔を写生したのがあるが、よく似ていて、そしてやつれはてているのがさびしい。去年の春から悪くなって、五月に某病院に入院するとまもなくなくなった。臨終は平穏であった。みんなに看護の礼を言って暇ごいをして、自分・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
出典:青空文庫