・・・ 民子は非常に嬉しそうに元気一パイで、僕が、「それでは僕が先にきているのを民さんは知らないで来たの」 と云うと民子は、「知らなくてサ」 にこにこしながら茄子を採り始める。 茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ ところが、ある日のこと、お土産に、みごとなパイをもらったのでした。「まあ、おいしそうね。」と、お姉さんが、いいました。「お母さん、すぐに、切っておくれよ。」と、太郎さんが、いいました。「果物がはいっているから、勇ちゃんは、・・・ 小川未明 「お母さんはえらいな」
・・・歯が浮いて、酢ッぱい汁が歯髄にしみこむのをものともせずに、幾ツも、幾ツも、彼女はそれをむさぼり食った。蜜柑の皮は窓のさきに放られてうず高くなった。その上へ、陰気くさい雨がびしょ/\と降り注いでいた。 夜、一段ひくい納屋の向う側にある便所・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・と失望した口ぶりには、よくよく鮒を得たくない意で胸が一パイになっているのを現わしていた。 どうもお前の竿では、わんどの内側しか釣れないのだから。と慰めてやった。わんどとは水の彎曲した半円形をいうのだ。が、かえってそれは少年に慰め・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・アイヌ語の春「パイカラ」はだいぶちがうが、しかしpをbに、kをhに代えるとおのずからペルシアの春に接近する。この置き換えは無理ではない。「張る」「ふえる」「腫るる」などもhまたはfにrの結合したものである。full, voll, πλω・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・口に啣えた巻煙草のパイレートに火をつけることも忘れていたが、良久あって、「おい。お願だからもうすこし貸してくれ。」「この次、きっと入れ合せをするよ。」とわたしもともども歎願した。 しかし『通鑑綱目』は二人がそれから半時間あまりも・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・だが其兄とさえ昵まぬ太十だから、どっちかといえばむっつりとした女房は実際こそっぱい間柄であった。孰れの村落へ行っても人は皆悪戯半分に瞽女を弄ぼうとする。瞽女もそれを知らないのではない。然し彼等は其僅少な金銭の為に節操を穢しつつある。瞽女でも・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・男の子はまるでパイを喰べるようにもうそれを喰べていました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのような形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。 二人はりんごを大切にポケットにしまいま・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・細工ものの箱に役者の絵はがきに講談本のあるはずの室には、壁一っぱいに地獄の絵がはりつけてあり畳の上には古い虫ばんだ黄表紙だの美くしい新□(ものが散らばってまっかにぬった箱の中には勝れた羽色をもった蝶が針にさされて入って居た。 そんな事も・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ 菓子を食べるにしろ、店の飾窓に大きいパイが並んでいて家へみんなの土産にしたいと思えば、店で食べるだけなら売るというのが近頃の風俗である。しかたがないから彼はそこで一人で食べてしまうだろう。家庭では母を先頭としての女性たちが、毎日苦心し・・・ 宮本百合子 「家庭と学生」
出典:青空文庫