・・・五尺たらずで、胃病もちで、しなびた小さい顔にいつも鼻じわよせながら、ニヤリニヤリと皮肉な笑いをうかべている男だった。「ホホン、そりゃええ――」 この「ホホン」というのが小野の得意であった。小男だから、いつも相手をすくいあげるようにし・・・ 徳永直 「白い道」
・・・然らばこの問題を逆にして試に東京の外観が遠からずして全く改革された暁には、如何なる方面、如何なる隠れた処に、旧日本の旧態が残されるかを想像して見るのも、皮肉な観察者には興味のないことではあるまい。実例は帝国劇場の建築だけが純西洋風に出来上り・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・石垣にぶつかって向脛を擦りむき、或る時は立木に突き当って生爪を剥がす、その苦戦云うばかりなし、しかしてついに物にならざるなり、元来この二十貫目の婆さんはむやみに人を馬鹿にする婆さんにして、この婆さんが皮肉に人を馬鹿にする時、その妹の十一貫目・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・あの小さな狡猾さうな眼をした、梟のやうな哲学者ショーペンハウエルは、彼の暗い洞窟の中から人生を隙見して、無限の退屈な欠伸をしながら、厭がらせの皮肉ばかりを言ひ続けた。一方であの荒鷲のやうなニイチェは、もつと勇敢に正面から突撃して行き、彼の師・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 私とても、言葉の上の皮肉や、自分の行李を放り込む腹癒せ位で、此事件の結末に満足や諦めを得ようとは思っていなかった。 ――一生涯! 一生涯、俺は呪ってやる、たといどんなに此先の俺の生涯が惨めでも、又短かくても、俺は呪ってやる。やっつ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・仮令い斯くまでの極端に至らざるも、婦人の私に自力自立の覚悟あれば、夫婦相対して夫に求むることも少なく、之を求めて得ざるの不平もなく、筆端或は皮肉に立入りて卑陋なるが如くなれども、其これを求めざるは両者の間に意見の衝突を少なくするの一助たる可・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・その人は大へん皮肉な目付きをして式場全体をきろきろ見下してから云いました。「今朝私どもがみなさんにさしあげて置いた五六枚のパンフレットはどなたも大抵お読み下すった事と思う。私はたしかに評判の通りシカゴ畜産組合の理事で又屠畜会社の技師です・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・そういう運動に携っている婦人たちに対して、一般の婦人が一種皮肉な絶望の視線を向けるほど微々たるものであった。 社会の内部の複雑な機構に織り込まれて、労働においても、家庭生活においても、その最も複雑な部面におかれている婦人の諸問題を、それ・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・随分皮肉なこともいうお爺さんでございましたから、この詞を余り正直に聞いて、源氏物語の文章を謗られたのだと解すべきではございますまい。しかし源氏物語の文章は、詞の新古は別としても、とにかく読みやすい文章ではないらしゅう思われます。 そうし・・・ 森鴎外 「『新訳源氏物語』初版の序」
・・・ナポレオンの唇は、間もなくサン・クルウの白い街道の遠景の上で、皮肉な線を描き出した。ネーには、このグロテスクな中に弱味を示したナポレオンの風貌は初めてであった。「陛下、そのヨーロッパを征服する奴は何者でございます?」「余だ、余だ」と・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫