・・・と祈り終わりてしばしは頭を得上げざりしが、ふと気が付いて懐を探り紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱の上に置き、他の人が早く来て拾えばその人にやるばかり彼二人がいつものように朝まだき薄暗き中に参詣するならば多分拾うてくれそうなものとおぼつかなき事にま・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・その冷ややかな陰の水際に一人の丸く肥ッた少年が釣りを垂れて深い清い淵の水面を余念なく見ている、その少年を少し隔れて柳の株に腰かけて、一人の旅人、零落と疲労をその衣服と容貌に示し、夢みるごときまなざしをして少年をながめている。小川の水上の柳の・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・僕が走って行ってこれを拾うて来て判事さんに渡すと、判事さんは何か小声で今井の叔父さんに言ったが、叔父さんはまじめな顔をして『ありがとう』と言って今の鳥を受け取った。僕は不思議に思ったばかりでその時は何の事だかわからなかった。 その後二月・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 五月十五日 どうして手提革包を拾ったかその手続まで詳わしく書くにも当るまい。ただ拾ったので、足にぶつかったから拾ったので、拾って取上げて見ると手提革包であったのである。 拾うと直ぐ、金銭! という一念が自分の頭にひらめいた。占・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・幾度もくり返して教えれば、二、三と十まで口で読み上げるだけのことはしますが、道ばたの石ころを拾うて三つ並べて、いくつだとききますと、考えてばかりいて返事をしないのです。無理にきくと初めは例の怪しげな笑い方をしていますが、後には泣きだしそうに・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・そして一人の子どもの哺乳や、添寝や、夜泣きや、おしっこの始末や、おしめの洗濯でさえも実に睡眠不足と過労とになりがちなものであるのに、一日外で労働して疲労して帰って、翌日はまた託児所にあずけて外出するというようなことで、果して母らしい愛育がで・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・ 九 薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。 どちらへ行けばいいのか! 疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞いていた。 疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去って・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・で歩くのであるから、忍耐に忍耐しきれなくなって怖くもなって来れば悲しくもなって来る、とうとう眼を凹ませて死にそうになって家へ帰って、物置の隅で人知れず三時間も寐てその疲労を癒したのであった。そこでその四五日は雁坂の山を望んでは、ああとてもあ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・「酔いもしない中からひどい管だねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。「馬鹿あ吐かせ、三銭の恨で執念をひく亡者の女房じゃあ汝だってちと役不足だろうじゃあ無えか、ハハハハ。「そうさネエ、まあ朝酒は呑ましてや・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・俺は運動に出ると、何時でも、その速力の出し工合と、身体の疲労の仕方によって、自分の健康に見当をつける素朴な方法を注意深く実行している。 走りながら、こっちでワザと大きな声をあげると、隣りを走っている同志も大きな声を出した。エヘンとせき払・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫