・・・ 鴎外が博物館総長の椅子に坐るや、世間には新館長が積弊を打破して大改革をするという風説があった。丁度その頃、或る処で鴎外に会った時、それとなく噂の真否を尋ねると、なかなかソンナわけには行かないよ、傍観者は直ぐ何でも改革出来るように思・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 松隈内閣だか隈板内閣だかの組閣に方って沼南が入閣するという風説が立った時、毎日新聞社にかつて在籍して猫の目のようにクルクル変る沼南の朝令暮改に散三ッ原苦しまされた或る男は曰く、「沼南の大臣になるなら俺が第一番に反対運動する、国家の政治・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・という電報が朝の新聞に見え、いよいよ海戦が初まったとか、あるいはこれから初まるとかいう風説が世間を騒がした日の正午少し過ぎ、飄然やって来て、玄関から大きな声で、「とうとうやったよ!」と叫った。「やったか?」と私も奥から飛んで出で、「・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ この一夜の歓楽が満都を羨殺し笑殺し苦殺した数日の後、この夜、某の大臣が名状すべからざる侮辱を某の貴夫人に加えたという奇怪な風説が忽ち帝都を騒がした。続いて新聞の三面子は仔細ありげな報道を伝えた。この夜、猿芝居が終って賓客が散じた頃、鹿・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 帰りは風雪になっていました。二人は毛布の中で抱き合わんばかりにして、サクサクと積もる雪を踏みながら、私はほとんど夢ごこちになって寒さも忘れ、木村とはろくろく口もきかずに帰りました。帰ってどうしたか、聖書でも読んだか、賛美歌でも歌ったか・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・濡縁の外は落葉松の垣だ。風雪の為に、垣も大分破損んだ。毎年聞える寂しい蛙の声が復た水車小屋の方からその障子のところへ伝わって来た。 北の縁側へ出て見た。腐りかけた草屋根の軒に近く、毎年虫に食われて弱って行く林檎の幹が高瀬の眼に映った。短・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・昨年の冬は、満州の野に降りしきる風雪をこのガラス窓から眺めて、その士官はウォツカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外に兵士が立っていた。日本兵のなすに足らざるを言って、虹のごとき気焔を吐いた。その室に、今、垂死の兵士の叫喚が響き渡る。 「・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。 風雪というものを知らない国があったとする、年中気温が摂氏二十五度を下がる事がなかったとする。そ・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・オペラは欧洲の本土に在っては風雪最凛冽なる冬季にのみ興行せられるのが例である。それ故わたくしの西洋音楽を聴いて直に想い起すものは、深夜の燈火に照された雪中街衢の光景であった。 然るに当夜観客の邦人中には市中の旅館に宿泊して居る人ででもあ・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
魚玄機が人を殺して獄に下った。風説は忽ち長安人士の間に流伝せられて、一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった。 唐の代には道教が盛であった。それは道士等が王室の李姓であるのを奇貨として、老子を先祖だと言い做し・・・ 森鴎外 「魚玄機」
出典:青空文庫