・・・伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣の色変わりたり。 そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。下・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 石を四五壇、せまり伏す枯尾花に鼠の法衣の隠れた時、ばさりと音して、塔婆近い枝に、山鴉が下りた。葉がくれに天狗の枕のように見える。蝋燭を啄もうとして、人の立去るのを待つのである。 衝と銜えると、大概は山へ飛ぶから間違はないのだが、怪・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・つの如し 阿誰貞節凜として秋霜 也た知る泉下遺憾無きを ひつぎを舁ぐの孤児戦場に趁く 蟇田素藤南面孤を称す是れ盗魁 匹として蜃気楼堂を吐くが如し 百年の艸木腥丘を余す 数里の山河劫灰に付す 敗卒庭に聚まる真に幻矣 精兵竇を潜・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 最後に一言付すべきことは、生の問いをもってする倫理学の研究は実は倫理学によって終局しないものである。それは善・悪の彼岸、すなわち宗教意識にまで分け入らねば解決できぬ。もとより倫理学としては、その学の中で解決を求めて追求するのが学の任務・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・きて与うといえば、出で来ぬには限らぬなるべし、おそろしき事かななど寒月子と窃かに語り合いつつ、好きほどに酒杯を返し納めて眠りに就くに、今宵は蚊もなければ蚊屋も吊らで、しかも涼しきに過ぐれば夜被引被ぎて臥す。室は紙障子引きたてしのみにて雨戸ひ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・そうして大袈裟に笑い伏すのが、何か上品なことだろうと、思いちがいしているのだ。いまのこの世の中で、こんな階級の人たちが、一ばん悪いのではないかしら。一ばん汚い。プチ・ブルというのかしら。小役人というのかしら。子供なんかも、へんに小ましゃくれ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ 来往すること昼夜を無するや或連レ袂歌呼 或は袂を連ねて歌呼し或謔浪笑罵 或は謔浪笑罵す或拗レ枝妄抛 或は枝を拗りて妄りに抛て或被レ酒僵臥 或は酒に被いて僵臥す游禽尽驚飛 游禽は尽く驚・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・池幅の少しく逼りたるに、臥す牛を欺く程の岩が向側から半ば岸に沿うて蹲踞れば、ウィリアムと岩との間は僅か一丈余ならんと思われる。その岩の上に一人の女が、眩ゆしと見ゆるまでに紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器を弾くともなしに弾いている。碧り積む水が・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・飢饉にあえば、これを救うの術を施し、一時、商況の不景気を見れば、その回復の法をはかり、敵国外患の警を聞けばただちに兵を足し、事、平和に帰すれば、また財政を脩むる等、左顧右視、臨機応変、一日片時も怠慢に附すべからず、一小事件も容易に看過すべか・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・ いらえもなく初秋の夜の最中に糸蝋のかげに臥す幼児の姿ほど美くしいものはない。悲しいものはない。 私はその傍に静かに思いにふけりながら座して居る。 驚と悲しみに乱された私の心は漸く今少し落ついて来た。 たった五年で――世・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
出典:青空文庫