・・・だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解らなくしてしまった。元来私は、磁石の方角を直覚する感官機能に、何かの著るしい欠陥をもった人間である。そのため道のおぼえが悪く、少し慣れない土地へ行くと、す・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 名山がふと廊下の足音を見返ると、吉里が今便所から出て湯殿の前を通るところであッた。しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もなかッた。 * ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・しかしふと気を換えて罷めた。そして爺いさんの後姿を見送っているうちに、気が落ち着いた。一本腕は肩を聳かした。「馬鹿爺い奴。どこへでも往きゃあがれ。いずれ四文もしないガラス玉か何かだろう。あんな手品に乗って気を揉んだのは、馬鹿だった。」こう云・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・仮令命を失ふとも心を金石のごとくに堅くして義を守るべし。 幼稚の時より男女の別を正くして仮初にも戯れたる事を見聞せしむ可らずと言う。即ち婬猥不潔のことは目にも見ず耳にも聞かぬようにす可しとの意味ならん。至極の教訓なり。是等は都て・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・凡そ感情の暖かい潮流が其方の心に漲って、其方が大世界の不思議をふと我物と悟った時、其方の土塊から出来ている体が顫えた時には、わしの秘密の威力が其方の心の底に触れたのじゃ。主人。もう好い好い。解った。まだ胸は支えているが、兎に角お前を歓迎・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ある日、多田氏の平生窟より人おこせ、おのが庵の壁の頽れかかれるをつくろはす来つる男のこまめやかなる者にて、このわたりはさておけよかめりとおのがいふところどころをもゆるしなう、机もなにもうばひとりてこなたかなたへうつしやる、おのれは盗・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ そして空から瞳を高原に転じました。全く砂はもうまっ白に見えていました。湖は緑青よりももっと古びその青さは私の心臓まで冷たくしました。 ふと私は私の前に三人の天の子供らを見ました。それはみな霜を織ったような羅をつけすきとおる沓をはき・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ 私も一緒に笑ったが、ふと思いついてきいた。「――でも、時間はどうなんです?――つまり仕事の間にここへやってきて治療して貰うらしいけれど、その時間は、やっぱり八時間の労働時間にくり入れられるんでしょうか」「そうですとも。丈夫な体・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・そのとき忠利はふと腮髯の伸びているのに気がついて住持に剃刀はないかと言った。住持が盥に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は機嫌よく児小姓に髯を剃らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では亡者の頭をたくさん剃ったであろうな」と言っ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ それで若夫婦は仲よく暮していたところが、ふと聞けば新田義興が足利から呼ばれて鎌倉へ入るとの噂があるので血気盛りの三郎は家へ引き籠もって軍の話を素聞きにしていられず、舅の民部も南朝へは心を傾けていることゆえ、難なく相談が整ってそれから二・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫