・・・ 年とった支那人は怒ったと見え、ぶるぶる手のペンを震わせている。「とにかく早く返してやり給え。」「君は――ええ、忍野君ですね。ちょっと待って下さいよ。」 二十前後の支那人は新らたに厚い帳簿をひろげ、何か口の中に読みはじめた。・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ただ、写真が古いせいか、一体に夕方みたいにうすぼんやり黄いろくって、その家や木がみんな妙にぶるぶるふるえていて――そりゃさびしい景色なんです。そこへ、小さな犬を一匹つれて、その人があなた煙草をふかしながら、出て来ました。やっぱり黒い服を着て・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体を震わせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かな家にいた時、客の来ない夜は一しょに寝る、白い小犬を飼っていたのだった。「可哀そうに、――飼ってやろうかしら。」 婆さんは・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 私はぶるぶる震えて泣きながら、両手の指をそろえて口の中へ押こんで、それをぎゅっと歯でかみしめながら、その男がどんどん沖の方に遠ざかって行くのを見送りました。私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私には分り・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・彼れは憤りにぶるぶる震えていた。生憎女の来ようがおそかった。怒った彼れには我慢が出来きらなかった。女の小屋に荒れこむ勢で立上ると彼れは白昼大道を行くような足どりで、藪道をぐんぐん歩いて行った。ふとある疎藪の所で彼れは野獣の敏感さを以て物のけ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・立ちどまってみると、ぼくのからだはぶるぶるふるえて、ひざ小僧と下あごとががちがち音を立てるかと思うほどだった。急に家がこいしくなった。おばあさまも、おとうさんも、おかあさんも、妹や弟たちもどうしているだろうと思うと、とてもその先までどなって・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・この丸で動かないように見えている全体が、引き吊るように、ぶるぶると顫え、ぴくぴくと引き附けているのである。その運動は目に見えない位に微細である。しかし革紐が緊しく張っているのと、痙攣のように体が顫うのとを見れば、非常な努力をしているのが知れ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ならんとする、瞬間に異ならず。 同時に真直に立った足許に、なめし皮の樺色の靴、宿を欺・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ と、首を振ると、耳まで被さった毛が、ぶるぶると動いて……腥い。 しばらくすると、薄墨をもう一刷した、水田の際を、おっかな吃驚、といった形で、漁夫らが屈腰に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌が居た・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・僕などは、もう、ぶるぶる顫て、喰う気にもなれなんだんやけど、大石軍曹は、僕等のあたまの上をひゅうひゅう飛んで行く砲弾を仰ぎながら、にこにこして喰っておった。「腹が出来んといくさも出来ん。」僕等の怖なった時に、却って平気なもんであった。軍曹が・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
出典:青空文庫