・・・ 五年間に渉った欧洲の戦乱は極東の帝国に暴富の幸を与えたことは既に人の知る所である。オペラ一座の渡来も要するに幸を東亜に与えた戦禍の一現象である。当時巴里に於て、一邦人が独力にしてマネエ、ロダンの如き巨匠の製作品と、又江戸浮世絵の蒐集品・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・ 彼女にとっては継子である嗣子夫妻との間に理解を欠き、亡夫の一周年でも過ぎたら、どうにかして、彼等は全く絶縁した生活を講じなければならない状態に成って来たのです。 夕方、山を眺めて涼みながら、私共は随分種々のことを話し合いました。・・・ 宮本百合子 「ひしがれた女性と語る」
・・・しかし亡父弥一右衛門はとにかく殉死者のうちに数えられている。その相続人たる権兵衛でみれば、死を賜うことは是非がない。武士らしく切腹仰せつけられれば異存はない。それに何事ぞ、奸盗かなんぞのように、白昼に縛首にせられた。この様子で推すれば、一族・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 防腐外科なんぞは、翁は分っている積りでも、実際本当には分からなかった。丁寧に消毒した手を有合の手拭で拭くような事が、いつまでも止まなかった。 これに反して、若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coup d'ドヨイ・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・菊地慎太郎は行く春の桜の花がチラと散る夕べ、亡父の墓を前にして、なつかしき母の胸より短刀のひらめきを見た。氷のごときその光は一瞬も菊地君の頭から離れぬ。やがてこの光が恩賜の時計の光となった。この美しい情は「愛」の上にたつ人の身の霊的興奮であ・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫