・・・それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。 そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。「おい。おい。あの二階に誰が住んで・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼はさきほどから長い間ぼんやりとそのさまを眺めていたのだ。「もう着くぞ」 父はすぐそばでこう言った。銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書きこんでいた。スコッチの旅行服の襟が首から離・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ それに透すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠せたか、肥えたか知らぬけれども、窪んだ目の赤味を帯びたのと、尖って黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・外のようすは霧がおりてぼんやりとしてきた。娘はふたたびあがってきて、舟子が待っておりますでございますと例のとおりていねいに両手をついていう。「どうでしょう、雨になりはしますまいか、遠くへのりだしてから降られちゃ、たいへんですからな」・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・今度だッてもこの子の代りを約束しに来たんですよ、それでなければ、どうして、このせちがらい世の中で、ぼんやり出て来られますものですか?」「代りなど拵えてやらないがいいや、あんな面白くもない家に」と、吉弥は起きあがった。「それが、ねえ、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・そのときにカーライルは十日ばかりぼんやりとして何もしなかったということであります。さすがのカーライルもそうであったろうと思います。それで腹が立った。ずいぶん短気の人でありましたから、非常に腹を立てた。彼はそのときは歴史などは抛りぽかして何に・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・毎日のように、赤い姫君は、ぼんやりと遠くの空をながめて、物思いに沈んでいられました。すると、高い黒のシルクハットをかぶって、黒の燕尾服を着て、黒塗りの馬車に乗った皇子の幻が浮かんで、あちらの地平線を横切るのが、ありありと見えるのでありました・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・晴れきって明るくはあるが、どこか影の薄いような秋の日に甲羅を干しながら、ぼんやり河岸縁に蹲んでいる労働者もある。私と同じようにおおかた午の糧に屈托しているのだろう。船虫が石垣の間を出たり入ったりしている。 河岸倉の庇の下に屋台店が出てい・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・妻糸子 三十四歳――という字がぼんやり眼にはいった。数字だけがはっきり頭に来た。女の方が年上だなと思いながら、宿帳を番頭にかえした。「蜘蛛がいるね」「へえ?」 番頭は見上げて、いますねと気のない声で言った。そしてべつだん捕えよう・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・Tもさすがに呆気に取られたさまで、ぼんやり見やっていたが、敗けん気を出して浪子夫人のあとから鎖につかまって乗りだしてみたが二足と先きへは進めなかった。たちまち振り飛ばされるのである。が彼は躍起となって、その大きな身体を泳ぐような恰好して、飛・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
出典:青空文庫