・・・君の手紙に不潔を感じたというのではなく、鏡の反射光を真正面に自分のほうに向けられたような気がして、自分の醜さにまごつくのです。おわかりの事と思う。 君の作品に於いても、自分にはたった一つ大きい不満があります。十九世紀の一流品に比肩出来る・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・と問われて、私は、ひどくまごつく。敢然たる言葉を私は、何も持っていないのだ。「そうですねえ。あんまり読んでいないのですが、何か、いいのがありますか? 読めば、たいてい感心するのですが、とにかく、皆よく、さっさと書けるものだと、不思議な気・・・ 太宰治 「鴎」
・・・人から、お元気ですか、と問われても、へどもどとまごつくのである。何と答えたらいいのだろう。元気とは、どんな状態の事をさして言うのだろう。元気、あいまいな言葉だ。むずかしい質問だ。辞書をひいて見よう。元気とは、身体を支持するいきおい。精神の活・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・朝晩に見ている懐中時計の六時がどんな字で書いてあるかと人に聞かれるとまごつくくらいであるが、写真の目くらい記憶力のすぐれた目もまた珍しい。一秒の五十分の一くらいな短時間にでもあらゆるものをすっかり認めて一度に覚え込んでしまうのである。 ・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・と云って少しまごつく。学生の一人が何か云う。「御免なさい」と云ってそれを修正する。その先生の態度がいかにも無邪気で、ちっとも威張らず気取らないのが実に愉快で胸がすくようであった。 プランクの明るい感じと反対にアドルフ・シュミット教授は何・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・うちへ帰る時、まごつくといけないから。」 猿が、一度に、きゃっきゃっ笑いました。生意気にも、ただの兵隊の小猿まで、笑うのです。大将が、やっと笑うのをやめて申しました。「いや、お帰りになりたい時は、いつでもお送りいたします。決してご心・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・大切な、間違えてはいけない字だと、凝っと見れば見る程不可解な、まごつく、奇怪な二本の棒になって来る。而も、私がこんなものさえ上手に書けなくては、学校へなど到底行けないとおっしゃったではないか。ああ、あんなにいい袴や草履が出来たのに! 私・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・そんなとき女の店員が傍から、その返事をきいていて、次の折にはそのような問いにまごつくまいとしている様子はない。彼女たちは完全に客をその男の店員にゆずって、そして任せて、自分は気を放してしまっている。知らないままにのこっていることに、安じてい・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
出典:青空文庫