・・・岡釣でも本所、深川、真鍋河岸や万年のあたりでまごまごした人とも思われねえ、あれは上の方の向島か、もっと上の方の岡釣師ですな。」 「なるほど勘が好い、どうもお前うまいことを言う、そして。」 「なアに、あれは何でもございませんよ、中気に・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・婆やまでそこいらにまごまごしている。 私は何も知らなかった。末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねているのか、さっぱりわからなかった。ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、とかく里心を起・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・と言ってまごまごしながら、その木の間をむりやりにくぐりぬけようともがきました。王子と三人の家来とは、そのひまに、王女をつれて一しょうけんめいににげのびました。 みんなはしばらく、かけつづけにかけた後、やっと安心して一と休みしました。王子・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・まあ、しばらくこうして、まごまごしているんだね。お前は病室へ行って、母の足でもさすっていなさい。おふくろの病気、ただ、それだけを考えていればいいんだ。」 妻は、でも、すぐには立ち去ろうとしなかった。暗闇の中に、うなだれて立っている。こん・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ただ、まごまごしている。たまに私の家に訪れて来る友人は、すべて才あり学あり、巧まずして華麗高潔の芸論を展開するのであるが、私は、れいの「天候居士」ゆえ、いたずらに、あの、あの、とばかり申して膝をゆすり、稀には、へえ、などの平伏の返事まで飛び・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・毎日、こんな奥の部屋でまごまごしていたって、いい文学は出来ない。大いに経験をひろくしなければいけない。いったい、お前は、どういうものを書いているのだ。うふふ。芸者小説か。お前は苦労を知らないから駄目だ。俺はもう、かかを三度とりかえた。あとの・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・子は、からだは割合丈夫でしたが、甲府で罹災する少し前から結膜炎を患い、空襲当時はまったく眼が見えなくなって、私はそれを背負って焔の雨の下を逃げまわり、焼け残った病院を捜して手当を受け、三週間ほど甲府でまごまごして、やっとこの子の眼があいたの・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・私は、三鷹の薄汚いおでんやに於いても軽蔑せられ、権威どころか、おでんやの女中さんに叱られてまごまごしている。私は、サタンほどの大物でなかった。 ほっと安堵の吐息をもらした途端に、またもや別の変な不安が湧いて出た。なぜ伊村君は、私をサタン・・・ 太宰治 「誰」
・・・私には、答える言葉が思い浮ばなかったのでございます。まごまごしていたら、牢屋へいれられる。重い罪名を負わされる。なんとかして巧く言いのがれなければ、と私は必死になって弁解の言葉を捜したのでございますが、なんと言い張ったらよいのか、五里霧中を・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・沈黙している作家の美しさ、おそろしさも、また、そこに在るのであるが、私は、いまは、そんなに色気を多くして居られない。まごまごしていると、あのむざんな焼印が、ぴったり額に押されてしまう。押されてしまったら、それなりけり。義務の在る数人を世話す・・・ 太宰治 「春の盗賊」
出典:青空文庫