・・・薬品に依って頭脳を麻痺させているわけでもなし、また、お酒に勢いを借りているわけでもない。ズボンのポケットには二十円余のお金がある。私は一糸みだれぬ整うた意志でもって死ぬるのだ。見るがよい。私の知性は、死ぬる一秒まえまで曇らぬ。けれどもひそか・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・世間には、心臓痲痺ということにしてありますけれど。」 わるびれる様子もなく、そうかといって、露悪症みたいな、荒んだやけくその言いかたでもなく、無心に事実を簡潔に述べている態度である。私は、かれの言葉に、爽快なものを感じたほどなのであるが・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・私は、阿佐ヶ谷の外科病院にいた時から、いまわしい悪癖に馴染んでいた。麻痺剤の使用である。はじめは医者も私の患部の苦痛を鎮める為に、朝夕ガアゼの詰めかえの時にそれを使用したのであったが、やがて私は、その薬品に拠らなければ眠れなくなった。私は不・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ 自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習いかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤をもちいて得たような不自然な自負心を感じて、決して私の怠惰からではなく、その習得を抛棄した覚えがある。あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転し・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・おもてむきは、心臓麻痺という事になっているけれども、たしかに自殺だ。うちで使っていた色の黒い料理人と通じて、外聞が悪くなって自殺したのだ。だから、妹の菊代の本当の父は、どっちだかわからない。それで僕のうちでは、旅館をやめて、この土地を引払い・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・それがどうかして時おり移動したくなるとひょいと逆立ちをして麻痺した腰とあと足を空中高くさし上げてそうして前足で自由に歩いて行く。さすがに猿だけのことはあるのであるが、とにかくこれもオリジナルである。 吸っていた巻き煙草の吸いがらを檻の前・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・今の子供はあまりに新しい驚異に対して麻痺させられているような気がある。 活動写真を始めて見たのはたぶん明治三十年代であったかと思う。夏休みに帰省中、鏡川原の納涼場で、見すぼらしい蓆囲いの小屋掛けの中でであった。おりから驟雨のあとで場内の・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ 案内者のいう所がすべて正しく少しの誤謬がないと仮定しても、そればかりに頼る時は自身の観察力や考察力を麻痺させる弊は免れ難い。何でも鵜呑みにしては消化されない、歯の咀嚼能力は退化し、食ったものは栄養にならない。しかるに如何なる案内者とい・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・ 宗教は往々人を酩酊させ官能と理性を麻痺させる点で酒に似ている。そうして、コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ているとも考えられる。酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてする・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・ それはとにかくわれわれ弱い人間が精神的にひどい打撃を受けたときに、頭がぼんやりしたり、一部の神経が麻痺して腰が立たなくなったり、何病とも知れない病人同様の状態になって蒲団を頭からかぶって寝込んでしまったりする。あれもやはり造化の妙機で・・・ 寺田寅彦 「鎖骨」
出典:青空文庫