・・・ 帳簿に向かうと父の顔色は急に引き締まって、監督に対する時と同じようになった。用のある時は呼ぶからと言うので監督は事務所の方に退けられた。 きちょうめんに正座して、父は例の皮表紙の懐中手帳を取り出して、かねてからの不審の点を、からん・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ さてかような倫理的要請は必ず倫理学という学に向かうとは限らない。一般に科学というものを知らなかった上古の人間も学としての形態の充分ととのっていない支那や日本の諸子百家の教えも、また文字なき田夫野人の世渡りの法にも倫理的関心と探究と実践・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・性交を伴わぬ異性との恋愛は、如何にたましいの高揚があっても、酒なくして佳肴に向かう飲酒家の如くに、もはや喜びを感じられなくなる。いかに高貴な、楚々たる女性に対してもまじりなき憧憬が感じられなくなる。そしてさらに不幸なことには、このことは人生・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・をもってたち向かうとき、これに適切に答え得る書物はそれほど多いものではないのである。むしろそのはなはだ少ないのに意外の感を持つであろう。 かくして「問い」はおのずと書物を選ばしめる。自らの「問い」なくして手当たり次第に読書することは、そ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・人間はそれぞれの明白な心の目標があって、それに向かわんために充分納得して寒苦と戦っているが、犬はなんのためだか、ちっともわからないで、ただたよる主人の向かう所なら、さもうれしげに死の雪原に突進するのである、犬でもやはり苦しくなくはないであろ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・その頂点に向かう視線が山頂への視線を越しそうで越さない。風が来ると噴水が乱れ、白樺が細かくそよぎ竹煮草が大きく揺れる。ともかくもここのながめは立体的である。 毎日少しずつ山を歩いていると足がだんだん軽くなる。はじめは両足を重い荷物のよう・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・色がさまざまに変りながら眼の向かう方へ動いて行く。 寺田寅彦 「窮理日記」
・・・ 〇時半の急行で札幌に向かう。北緯四十一度を越えても稲田の黄熟しているのに驚く。大沼公園はなるほど日本ばなれのした景色である。鉄骨ペンキ塗りの展望塔がすっかり板に付いて見える。黄櫨や山葡萄が紅葉しており、池には白い睡蓮が咲いている。駒ヶ・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・空の勇士、選りぬきのエースが手馴れの爆撃機を駆って敵地に向かうときの心持には、どこかしら、亀さんが八かましやの隠居の秘蔵の柿を掠奪に出かけたときの心持の中のある部分に似たものがありはしないか。こんな他愛のないことを考えることもある。それはと・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・山内へ向かう人数につれてぶらぶら歩く。西洋人を乗せた自動車がけたたましく馳け抜ける向うから紙細工の菊を帽子に挿した手代らしい二、三人連れの自転車が来る。手に手に紅葉の枝をさげた女学生の一群が目につく。博覧会の跡は大半取り崩されているが、もと・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
出典:青空文庫